その翌日、翌々日は、土日休みでした。 それまで接客業をしていたので、基本的に土曜、日曜に休みを取ることはなく、なんでもないのに二日続けてお休みを取ることもありませんでしたから、さいしょは不思議な気持ちがしました。いわゆるOLという職業は、や…
気がつけば、すでに夕刻を過ぎていました。 きっと、あのガラス張りの通路から外を見渡せば、オレンジのシロップの底にインクみたいな青が乗った甘いカクテルのような色合いが、東京の街並みを見事に染め上げているにちがいない、と想像しました。 タカガキ…
落とし穴。 清美ちゃん。が、先日電話で言ったことばをふと思い出しました。 なにか裏があるのかもしれない。と。 いいえ、裏もなにも、わたしの無能さを暴露して、ただ用無しになる。 ただそれだけの決着なのかもしれない。と。 いざ、ここを去るときが来た…
その後すぐ、タカガキさんが出社されました。やっぱり、昨日わたしがなんてさわやかな人なのだろうと思ったのは、まちがいではありませんでした。颯爽とあらわれ、よく通るのだけれど耳当たりの良い声で挨拶をし、きびきびとなさっていました。 ぼんやりとそ…
わたしの、あの会社での『経歴』は、『インド人エンジニア』が来るまでの、ほんのわずかな期間に限られているのかもしれない。 翌朝、なぜかそんな気がしました。 来週早々インド人の開発者がやって来る、通訳としてわたしが紹介される、そして一言二言話し…
その日の夜、さきほどもお話しした清美ちゃんという短大時代の友人に、ひさしぶりに電話をしてみました。わたし、じぶんから電話をしたり、メールをしたりなんてことをするの、あまりないことなのですけれど、その日は、なぜか、だれかと話をしたかったので…
イトウさんは、なにも言わず、ただ、にっと笑ってみせました。 なにか言うべきなのかもしれなかったのですが、なにを言えばいいのか分からず、わたしも、ただ笑ってみせました。 つづいて課長は、「おおい、タカガキくん」と声をかけました。 すると、イトウ…
さいしょ、インドの人が来る、と聞いたときは、いったいなんのことか分かりませんでした。 無知なわたしは、この会社でカレーでも作るのかしら? なんて思ったものです。 おかしいですよね。 でも、すぐ後に知ったことですが、インドはIT先進国なんですね…
翌朝。電話は、ありませんでした。だれからも。 わたしは、身支度をし、言われた時間よりもだいぶ余裕を持って、家を出ました。そのとき、はじめて通勤ラッシュといわれる時間帯に山手線に乗りました。もう乗れない、というくらいの満員状態なのに、それでも…
わたしにとってはじめてのデスクワーク。その勤務先は、いつかはと望んでいた、誰もが知っているような大企業といって差し支えないところでした。 テレビのコマーシャルなんかでも見かけるような、いわゆる、大手電機メーカーです。しかも、おどろいたことに…
重々しい鉄の扉を開けると、室内では、事務員らしき女性と、パンチパーマにダブルのスーツを着た、まるでヤクザ映画の端役みたいな風貌の男のひとがひとり、待ち構えていました。 まちがえました。――なんて言って、そのまま扉を閉めて、帰ってしまうこともで…
いまから六年ほど前、わたしは、短大を卒業したばかりでしたが、希望に満ちた新社会人生活に胸を躍らせていたわけではなく、これから先の人生に一抹の不安をいだきながらも、目先の生活で手一杯な、そんな日々を送っていました。 仕事は、していました。 就…
「わかりました」と、婦人がしっかりと、言った。「お話します。どうか、こんなわたしの話を、聞いてください」 わたしは、婦人の顔を見た。そこには、自棄になったような勢いや捨て鉢さなどはなく、ただ、淡々とした決意が、あるように思えた。 はい、と、…
わたしには、ずっと、わすれられないひとが、いるんです。 何年も、何年もずっと。 たぶん、これから先もずっと。 ええ。そう、ですね。いままでのわたしは、あえて、わすれずにいることを選択してきたのかもしれません。ほんとうのところ、まるで呪縛のよう…
ひとは、わすれるがために、記憶していくのか。記憶するがために、わすれていくのか。