:12.つめたさの底
落とし穴。
清美ちゃん。が、先日電話で言ったことばをふと思い出しました。
なにか裏があるのかもしれない。と。
いいえ、裏もなにも、わたしの無能さを暴露して、ただ用無しになる。
ただそれだけの決着なのかもしれない。と。
いざ、ここを去るときが来たら。そのときは、そのとき。
なんて、腹をくくったようなつもりになってみたものの。やっぱりそのときが来るのは、こわい。と思いました。正確には、その『瞬間』を受け止めなくてはならないことが。でした。
じぶんがつらい、というよりも、ここにいるみなさんに不快な思いをさせてしまうかもしれないということに気が沈むのでした。
タカガキさんはきっとかなしい顔をなさるだろう、ミヤモトさんは「あらあ」なんて冗談めかしてつぶやくかもしれないけれどやはりかなしまれるかもしれない、イトウさんは……「へん」なんて鼻をならしてぷいっとどこかへ行ってしまうかも?
そんな不安な気持ちとは裏腹に、直線と灰色とに囲まれたビルのなかでなぜかそこだけ凸型に飛び出たわたしたちのいる『テリトリー』では、不思議にゆったりとした、おだやかな時間が流れていました。
こうして、このまま、ここで、ときが止まってしまえばいいのに。
そんなことを考えたりしました。すると、ひとつの思考は、光の速さを超えるスピードで、別の思考を連れてきます。
いいえ、さいしょから、ここに来なければ良かったのだ。と。
あのとき、ノザキ課長があらわれるまえに去ればよかったのだ。と。
あのとき、パンチの社長の、あの会社に行かなければよかったのだ。と。
あのとき、アルバイト情報誌の求人を見つけなければよかったのだ。と。
あのとき、元彼の言ったことばを思い出さなければよかったのだ。と。
あのとき、彼と別れなければよかったのだ。と。
あのとき、彼と付き合わなければよかったのだ。と。
あのとき、彼と出会わなければよかったのだ。と。
それより、彼と出会うことになったきっかけ――それは、短大のサークルでしたから、あのサークルに入らなければよかったのだ。と。
そもそも、あの短大に行かなければよかったのだ。と。
それより、あの短大に行くことになったきっかけ――それは、高校の担任の先生にすすめれられたからでしたから、あの高校に行かなければよかったのだ。と。
そもそも、あの高校に行くことになったきっかけ――それは、両親にすすめられたからでしたから、……
ずっと、ずっと遡っていくと、
わたしが、わたしでなかったら、よかったのだ。
という自己否定に帰着することになりました。
ぞっとするようなおそろしさにおそわれながらも、妙な可笑しさがこみあげてくるような、つめたさの底に沈む気持ちでした。