:11.ビールと発泡酒


 その後すぐ、タカガキさんが出社されました。やっぱり、昨日わたしがなんてさわやかな人なのだろうと思ったのは、まちがいではありませんでした。颯爽とあらわれ、よく通るのだけれど耳当たりの良い声で挨拶をし、きびきびとなさっていました。

 ぼんやりとその様子を見ていると、わたしのところにふっとやって来て、「どうですか?」と訊ねてこられました。なんのことかとタカガキさんの顔をのぞくと、とてもやさしい笑顔を返してこられました。入社したばかりのわたしのことを気遣ってくださっているのだ、と分かり、あわてて、「だいじょうぶです」とこたえました。いったいなにが、どうですか? なのか。いったいどこが、だいじょうぶ、なのか。じぶんでもそう思ってしまいましたが、それだけをこたえるのが精一杯でした。

 つづいて、イトウさんが出社されました。だるそうに手足をぶらぶらさせながら、ゆっくりと自席に着いて、深いため息をつかれていました。

 その後、最後に、マツキさんがあらわれました。はっと、ひと目見ただけで、着ていらっしゃる服がおろし立てのものであることが分かりました。きっと、とても高価なものなのだろうなという素晴らしい仕立ての、その当時流行していたデザインのスーツでした。でも、なんとなく、違和感を覚えました。いえ、似合っていなかった、というわけではありませんけれど。いったいなんだろう? と思っていると、ミヤモトさんが、

「あれえ、マツキさん、髪切った?」とたずねられました。

 すると、マツキさんは、ややばつが悪そうな表情をして、「ええ、まあ」と。

 ああ、なるほど、昨日と印象がちがうのは、髪型のせいだ、と気がつきました。全体の長さはほとんど変わっていませんでしたが、昨日よりも軽くなっていて、髪の色も若干明るくなったように見えました。

「昨日、ちょっと、知り合いの美容室に寄ったら、切られちゃって」

「美容師のお友だちもいるんですか?」とわたしがたずねると、「ええ、まあ」と。

「マツキさん、今日は香水もつけてるでしょう?」ミヤモトさんがおっしゃられました。「今日はデート?」

 マツキさんは、「ああ、これは、昨日、フランス土産で母からもらった香水なんです」とだけこたえられました。

 その香りが、カルバン・クラインというニュー・ヨークのデザイナーのものに似ている、と思い、いったいなんという香水なのかとたずねようとしましたが、なんとなく訊くのがためらわれ、なにも言いませんでした。


 朝のばたばたとした時間が過ぎていくと、凸型に飛び出たわたしたちのグループの一角だけが、この会社からも、世間からも切り離されたような、不思議とゆったりとした空気に支配されているようでした。

 ときどきミヤモトさんとスズキさんが会話をしているくらい、というか、ミヤモトさんが一方的に話しかけて、それをスズキさんが軽くあしらっているような感じでしたが、ともかく、ほかのみなさんはほとんど会話をせず、じっと、パソコンの画面に向かっていました。

 それまでお客さん商売をしていたわたし、一日中話し声やら雑踏やらのなかで過ごしていたわたし、にとっては、慣れるまでは、なんとなく居心地がわるいものでした。

 昨日イトウさんに教えていただいたことを復習するように、同じ作業をなぞらえながら、なんとなく、ミヤモトさんとスズキさんの会話を聞いていると、

「ねえ、ユタカ、アウトルックのことでちょっと訊きたいことがあるんだけど」

「アウトルックって。ミヤモトさんが使ってるのは、アウトルック・エクスプレスでしょう? 言っとくけど、『アウトルック』と『アウトルック・エクスプレス』はまったく別物だからね」

 どうやらソフトの名称を略さずにきちんと言え、ということなのだろう、と想像しました。同じもののような気がしましたが、なにがちがうのだろう? 微妙に似ているようでまったくちがうもの、……ビールと発泡酒ぐらいちがうということだろうか? なんてことを考えたり。

 ミヤモトさんが、「ごめん。でさ、アウトルック・エクスプレス、のことで訊きたいんだけど、いい?」と言うと、

「だめ。いま手が離せないから」と、すげないこたえ。

 イトウさんが大きな声でおかしそうにわらうので、みんなもつられて笑ってしまいました。

 こうしてここで、おだやかでゆっくりとした時間を過ごせるのは、今日で最後かもしれない。ふっと、そんなふうに考えました。翌週になれば――その日は金曜日でした――、『インド人エンジニア』がやって来る、そして、もしかするとわたしは、そこで用無しの烙印を押され、ここを去ることになるかもしれないのだ、と。

 もし、そうなってしまったら。四の五の言わず、潔く、じぶんの無能さを認め、きっぱりとここから出て行こう。

 イトウさんのものであるとすぐに分かる、深い吐息や舌打ちの音に耳をそばだてながら、そんな決意を固めていました。