:3.決心


 いまから六年ほど前、わたしは、短大を卒業したばかりでしたが、希望に満ちた新社会人生活に胸を躍らせていたわけではなく、これから先の人生に一抹の不安をいだきながらも、目先の生活で手一杯な、そんな日々を送っていました。

 仕事は、していました。

 就職活動というものを放棄していたため、学生時代の延長で、本屋さんでのアルバイトですけれど。あ、わたし、本がすきなんです。本に囲まれて過ごしていられたら、それだけでたのしいだろうと思って、なんとなくはじめたバイトでした。でも、本屋さんでの仕事は、想像以上に大変でした。売れた本の補充や書棚の整理というものをしなくてはいけませんでしたから。本って、意外と重いのですよね。室内での仕事でしたが、汗だくになることもありました。

 それでも、しばらく仕事をつづけられたのは、やはり、すきなものにふれていられるからだったと思います。いえ、そう思い込もうとしていたのかもしれません。

 すきだから、から、すきだけど、という気持ちが芽生えてしまうと、もう、どうにもなりませんでした。こんなに、汗にまみれて重い本を運び、指先をいため、腰を悪くし、安月給にかつかつしながら生活しなくてはいけないなんてと、すきなはずの本を見るのもいやな気持ちになることもありました。

 そのうち、いわゆるOLさん、というのでしょうか、オフィスビルで働く女性、というものに一種の憧れをいだくようになりました。

 いったん放棄したはずの、就職、という二文字が頭をかすめるようになったのは、ちょうど当時付き合っていた彼と別れ、三年後、五年後、十年後のじぶんがいったいどうなっているのか、想像もできなくなっていたせいもあります。

 彼とは、自然消滅、でした。そのときの彼は、三人目の彼でしたが、三ヶ月くらい、あっというまのことでした。ほかの彼ともそうでしたけれど。どうやらわたしには恋愛感情というものが希薄なようで、付き合っていて、おもしろみがなかったのかもしれません。じぶんでいうのもなんですけれど。

 やっぱり、だめだった、と、半ば予期していたできごとが現実となったときというのは不思議で、妙に空虚な気持ちになるものなのですね。いつ、そのときが来るかと怯えていたことがおとずれて、ほっとすると同時に、がっかりとするような。

 でも、ほんとうにおそろしい気がしたのは、失恋したという事実に、なんのいたみも感じなかったということでした。

 こんなわたしは、恋愛というものができるのだろうか。結婚ができるのだろうか。

 そして、このまま本屋さんでバイトをつづけて、いったい、どうするつもりなのか。いったいどうなるのか。どうなっていくのか。そう考えると、めまいがするような気持ちがしました。

 恋愛のこと。じぶんの職業。じぶんの将来。

 なにか、しなくては。どうにか、しなくては。なにを、どうすればいいのか、わからないけれど、動き出さなくては。そう思うのは、至極自然なことでした。

 その、ちょっとまえのことでした。彼とまだ付き合っていたころ、彼の家に遊びに行ったとき、真新しいパソコンがリビングルームに備え付けてあるのを目にしました。

 彼、いえ、もと彼は、「いや、いまはパソコンくらいできないと、仕事に不利だから」と言いました。

 パソコンの時代。

 じぶんには関係のない世界だと思い、そのときはあまり気にも留めなかったのですが、ふとした瞬間に、「パソコンくらいできないと」と言った、もと彼、の言葉がよみがえって、頭から離れなくなりました。

 ここ数年、安価なパソコンも出回っていますが、当時なにも知らなかったわたしは、パソコンといえば高価なものと思っていましたので、パソコンを入手するための手段すら分からずにいました。

 パソコンを扱えるようになりたい。でも、どうすれば?




 そんなとき、たまたまなんとはなしに購入したアルバイトの情報誌で、「事務アルバイト募集」という広告があるのを目にしました。


「パソコン初心者歓迎」
「経験者が懇切丁寧に教えます」
「Word, Excelスキルを身につけるチャンス!」
「マクロを使いこなして、表計算のプロに」
MOUS取得支援あり」
「大企業への出向あり」
「英語力ある方歓迎!」


 そんな文句がずらずらと並んでいましたが、半分くらいは意味がわかりませんでした。そのくせ、これはなにかの啓示かもしれない、なんて思いはじめると、もうほかの広告は目に入らなくなってしまい、ずらずら並んだ文句を、何度も何度も、読み返しました。どうやら初心者でもチャンスがあり、なにかのスキルを身につけられる、そして、英語力があれば有利なのだ。そう解釈し、さまざまな空想をふくらませました。

 仕事をしながらパソコンを覚えられる、そして、ゆくゆくは正社員として雇ってもらえるかもしれない、スキルを身につけたら、誰しもが知っているような大企業で働くこともできるのかも。とか、そんなことです。

 物覚えがいいことや、割と機械にも強いということ、それから、英語も得意――、わたし、英検二級を持っているのです――、ということもあって、それまでパソコンを触ったことなど一度もなかったのですが、なぜか、きっとやっていける、という自信が湧いてきました。

 そこでわたしは一念発起し、その会社のアルバイト募集の面接を受けに行くことにしたのです。

 面接は、すぐでした。履歴書を送った翌々日応募受領の電話があり、その翌日にという。あまりにもあっけない展開だと、逆に拍子抜けしてしまったくらいです。

 面接のため、はじめて、千葉県の柏市というところに行きました。上野駅から長距離電車に乗って。都会から郊外へ、だんだんとものさびしくなっていく窓の外の景色をぼんやりと眺めていると、まるで、夢やぶれてどこか知らない土地に流されていくみたいな、そんな気持ちになりました。

 アルバイト情報誌の地図を頼りに辿り着いた面接会場、というか、その会社、は、汚い雑居ビルのなかにありました。重々しい鉄の扉を開けると、室内では、事務員らしき女性と、パンチパーマにダブルのスーツを着た、まるでヤクザ映画の端役みたいな風貌の男のひとがひとり、待ち構えていました。