:1.はじまり
- わたしには、ずっと、わすれられないひとが、いるんです。 何年も、何年もずっと。 たぶん、これから先もずっと。 ええ。そう、ですね。いままでのわたしは、あえて、わすれずにいることを選択してきたのかもしれません。ほんとうのところ、まるで呪縛のようなこの思いから解放されたい、と、これまでに、何度も、何度も思ってきました。けれど、わすれてしまうくらいならば、まるで十字架を背負うように、両手を縛られながら生きていきたい、そんなふうに考えてきました。 あ、いえ、わたしは、キリスト教徒ではありません。 そうですね。 矢が、刺さって、それ以上刺すことも、抜くこともできなくなっている、というようなことです。前に進むことも、後ろに下がることもできず、身動きがとれなくなっている、という。 むしろ、そうなるように、じぶん自身に仕向けてきたような気がします。あ、いま、話しながらそう思ったのですけれど。 わすれちゃいけない。わすれたらいけない。わすれたら、おわりだ。そう思ってきました。 それが、なぜ、ここにいるのでしょうね。 それは、じぶんでもよくわからないのですけれど。 そうですね、ただ、はっきりしているのは、あのひとにとって、わたしが、――
「――すみません」
わたしは恐縮しながらも、あわてて言葉を発した。
「え」
目の前の、半ば夢見ごこちに目を曇らせた婦人。が、ふっと顔を上げて、話すのをやめた。声がやんだだけで、口元にはまだ、これから話そうとしていたことばの余韻が残り、唇が“O”のかたちに留まっていた。そのかたちから、上方へ目線をずらし、婦人と目が合った瞬間、曇っているのは涙のせいだと分かったが、どうやら泣いているというわけではなく、いつも潤んだ瞳をしている類の人なのだと気がついた。
「ええと、ごめんなさい」
まるで、その潤みがねっとりと身体にまとわりつくような気がして、わたしは、ゆっくりと、さりげなく、書類に目をやるふりをして、視線を振りほどいた。
三隅真希。ミスミマキ。二十六歳。女性。――すでに目を通して知っている依頼者の情報を頭のなかでめぐらせた。とても二十六には見えない。いや、老けている、というわけではないが。どこか、もっと年齢と経験を経た女性の厳しさと諦めとがない交ぜになったやる瀬なさが、あるように思えた。
かなしい女性。ここに、よく来る人たち。いや、かなしいから、ここに来るのだろう。かなしい女性をあまりにも知りすぎたため、わたしは、感覚が麻痺しているのかもしれない。
わたしは、眼鏡越しにちらりと婦人に目を走らせた。地味なスーツ風の衣服からすらりと伸びた脚は、やや細すぎる気もするが、なかなか魅力的ではあった。黒く長い髪に重々しく縁どられた小さな顔。おそらく美人であるはずなのに、どうしてか、美しい人、だとは言い切りがたい、なにかがあった。
二十六歳。女性。OL。未婚。ひとり暮らし。猫がすき。花がすき。これまでにつき合った彼氏は二人ないし三人。いずれも短い期間。最後に付き合ったのは三年前。――といったところか。
わたしの悪い癖で、依頼者についての勝手な想像を頭のなかで素早くめぐらせていると、刺すような視線が注がれていることに気がついた。依頼者のものではなく、部屋の隅に立ちんぼになっている、今日からアルバイトで入ってもらったアシスタントの女子大生からのものだった。
わたしは、咳払いのようなものをひとつして、アオキくん、と、女子大生に呼びかけた。女子大生は、じぶんが呼びかけられると思っていなかったのか、一瞬の間ののち、あわてて、はい、と応えた。
「お飲み物を、出してくれないかな」
依頼者がはっとわたしの顔を見たような気がした。わたしは、婦人のほうへ向き直り、「いや、お話に入っていただくまえに、お茶でも、と思いまして」
婦人は、よくわからない、というふうに首を少し傾けた。
「いや、みなさん、よく、お話に夢中になられるんですよ。話をしつづけるのって、けっこう、のどが渇くんですよ」
――そして、話を聞きつづけるほうも、ね。こころのなかでぺろりと舌を出すわたし。に、婦人が気がついているか、顔をのぞき込んでみた。
相手は相変わらず、呆けたような、夢見ごこちのかおで、なにもしゃべらず、首をかしげた。こういった、一見無口そうな依頼者のほうが、話し出すと止まらなくなることを、わたしはよく知っているのである。
つらい恋を忘れたい。よくある話だ。振り向いてくれない男を断ち切りたい。よくある依頼だ。よくある話、よくある依頼に、わたしがよく対処する方法は、じっくりと話をきいてあげること。依頼者が納得するまで話をさせてあげること。
それで、彼女たち、は、満足するはず――
「ほんとうに、わすれられない過去を、わすれることができるんですか?」
女子大生がお茶を汲んでくれているあいだ、手持ち無沙汰にわたしが世間話でもしようかと思っていると、突然婦人が、ゆっくりと、けれど、なにかをさぐるような確かさで言うので、わたしはふたたび婦人の顔をのぞき込んだ。まだ、先ほどまでの呆けたような表情だったが、その奥にじっとりとしたゆるぎなさが、あった。
わたしは、「それは、わかりません」と言った。きっぱりと言い切った、といったほうが良いか。
婦人は、別段驚きも悲嘆もせず、そうですか、と言った。
なんとなく、この女性らしい反応のような気がした。すぐそばでお茶を淹れている女子大生のほうが、なにか言いたげに、じっとわたしを見ているくらいだ。
わたしは、こころのなかで、ひとつ、大きな息をゆっくりと吐いた。これまでに、あまりにも聞かれすぎた質問だったせいではなく、女子大生の手前だったからだ。きっと、女子大生は、わたしがなんと答えるのか、息を凝らして見守っているだろう。
わたしは、ゆっくりと言った。
「わたしは、医者ではありません。学者でもありません。ましてやマジシャンでもありません」
婦人の表情は、変わらなかった。わたしは、つづけた。
「過去をなかったことにすることは、わたしにはできません。いや、だれにもできないのかもしれません。過去を忘れる、忘れさせるのでなく、忘れる、というのは、本人にしかできないことかもしれません。
「わたしは、ただの研究者です。ヒトの、記憶機能についての。記憶について、いろいろなかたの話を伺っているうち、いつのまにか、過去についての相談を受けるようになってしまいました。
「わたしにできるのは、お話を伺って、過去を『忘れる』ためのヒントを与えるくらいなのです」
――ゆっくりと、沈黙が流れた。
こういった場面であらわれる依頼者の反応のほとんどは、絶望して泣き出すか、怒って帰ってしまうか。あるいは、もう、引き返せなくて、とにかくなんでもいいから話をしはじめるか。いずれかである。
婦人は、いずれの反応も示さず、なにか言おうとしているのだけれども、なにをどういえばいいか分からない、という表情でしばらく押し黙っていた。じぶんのこころのなかで、なにか、決意を固めるための理由を作り上げているようにも見えた。それから、ゆっくりと顔を上げて、わたしの目をのぞき込んだ。その目のなかには、相変わらず薄い涙の膜がうずを巻いていた。そのうずが、わたしを飲み込もうとした瞬間、
「わかりました」と、婦人がしっかりと、言った。
「お話します。どうか、こんなわたしの話を、聞いてください」