:13.オレンジシロップの底
気がつけば、すでに夕刻を過ぎていました。
きっと、あのガラス張りの通路から外を見渡せば、オレンジのシロップの底にインクみたいな青が乗った甘いカクテルのような色合いが、東京の街並みを見事に染め上げているにちがいない、と想像しました。
タカガキさん、スズキさんんは、いつのまにか外出されたかすでに帰宅されたようでした。おのおのの座席には、テレビの電源を消したあとのような、不思議な気配がかすかに残っているようで、そんな名残りを尻目に、マツキさん、ミヤモトさん、とつづいて帰宅されていきました。
そんななかで、わたしの座席からはちょうど斜めに対面となっているイトウさんの位置から、烈しく叩かれるキーボードの音と深いため息が聞こえてきました。なんとなく、咳払いなどしてみせると、
「あれ、まだいたの?」と。「静かだから、いるの分からなかったよ」
「なに、してるんですか?」
「うん? いまね、Rubyでちょっとしたプログラムを書こうとしてるんだけど、ドキュメントが英語ばっかりなんだよね」
「ルビィ?」かわいらしい名前ですが、いったい、なんのことだか分かりませんでした。
「あ、そういえばマキちゃん英語得意なんだよね?」
果たしてじぶんで得意といえるほど得意というのはどのくらい得意なことを言うのか。などと考え、なにもこたえずにいると、
「わるいけどさ、これ訳してくれない?」と。
イトウさんの席へ向かいパソコンの画面を見ると、膨大な英単語が連ねられた真っ白なページが表示されていました。なにかの前衛的なデザインのようにも見えました。どうやらプログラミングをするための文体、のようなものの説明のようでした。
虫のように連なる文章に目を走らせると、見たこともない単語がちらほらと混ざっていて、これは手に負えない、と思いましたが、なんとか分かる部分のみを伝えると、
「なるほどね、制御構造はスコープしないけど、イテレーターはスコープしないとだめなんだね」
と言いました。いったいなにを言っているのかさっぱり分かりませんでしたが、イトウさんは納得していたようでした。
見たこともない単語は、コンピューターのプログラムの専門用語なのか。と考えました。なるほど、専門用語。わたしのなかで、ひらめきが走りました。
「あのう、イトウさん」
「なに?」
「来週来る、インド人エンジニアのかた。そのかたも、この文体で仕事をする人ですか?」
「文体? ああ、言語ね。うん、おそらく、RubyじゃなくてCじゃないの?」
「シー? 海、ですか?」
「海?」イトウさんは、参った、というように笑いました。「いいや、シーって、ABCのCだよ。C言語っていうのがあるんだよ」
「C言語」わすれないように、イトウさんのことばを繰り返しました。
翌週来るという、インド人エンジニア。この人ももしかすると、コンピュータープログラミングの専門用語を使う人かもしれない。もしそうだとしたら、いまからでは遅いかもしれないけれど、多少なりともその知識を頭に入れておいたほうがいいのでは……。
そう思ったら、急に居ても立ってもいられないような気持ちになりました。
「やった、さっきまでエラッてのが通ったよ。マキちゃん、ありがとね」
プログラミングが成功したようで、イトウさんは大げさなくらい喜んでいました。
「さてと、これを仕上げて帰るとするか。金曜の夜だもんな」
わたしは、そうですね、とだけこたえて、『C言語』というものの英語の本を手に入れる方法について考えを巡らせていました。
「マキちゃんは帰んないの? 金曜の夜だぜ。これから飲み行く?」
とイトウさんがたずねてきたので、はっと顔を見ると、べつに深い意味はない、というのを装っているような、なんだかヘンな表情をしているように見えました。ねこが、なにかとぼけているときのような。
わたしもなんとなく、ヘンな気持ちになって、つと立ち上がりました。
「これから、寄らなきゃいけないところが、あるので」と言って。
そして、なるべくイトウさんのほうを見ないようにして、凸型のエリアを抜け、エレベーターに飛び乗り、ビルの外へと飛び出しました。
思っていた通り、外は、オレンジのシロップの底にインクみたいな青が乗った甘いカクテルのような夕方と夜の狭間にありました。
わたしは、いざ、『C言語』という未知の領域への一歩を踏み出すべく、歩き出しました。オレンジシロップの底を、たゆたいながら。