:14. 休日
その翌日、翌々日は、土日休みでした。
それまで接客業をしていたので、基本的に土曜、日曜に休みを取ることはなく、なんでもないのに二日続けてお休みを取ることもありませんでしたから、さいしょは不思議な気持ちがしました。いわゆるOLという職業は、やはり、身体的には楽なのかもしれない。などと考えたりしました。
平日に休めると、人手が少ないときに行動できるという強みがありますが、世の仕組みが土日休みの多数派に合わせるようになっている為、損することが多くあることに不満をいだいていたところもあります。……なんていうと、オーバーですけれど。
たとえば、バーゲンとか。たとえば、花火大会とか、お祭りとか、なんでもいいです、なにかのイベントごと。……わたしも女性ですから、興味がないわけではありません。そういったイベントは、たいてい、土日に開催されることが約束のようになっていますが、休みの取れないわたしは、そういったものには無縁でした。じぶんが行けるなんて思いもせず、とっくにあきらめていたことでもありました。
それから、数少ない友人から、どこか遊びに出かけようと誘われることもありました。先ほどもお話しした、清美ちゃんという友人からは、いわゆる『合コン』というものなんかに誘われることも。もちろん、金曜日の夜か、土、日のいずれかです。こんなわたしだって、友人と遊びに出かけたい、『合コン』にだって行きたい、と思うこともあります。でも、当然ながら参加することができないわたしは、休みが合わないのだからしょうがない。わたしが、土日休みではない仕事をしているのがいけないんだ。と思って、あきらめていました。
平日休みだと、病院に行けていいじゃない。……なんて。名古屋に帰って、名古屋嬢を相手にブランド物を売りさばいているデパート勤めのさゆりちゃんという友人が言っていました。
彼女、さゆりちゃん、は、ちょっと疲れたな、と思うと、病院に行って、点滴を打ってもらったり、薬をもらって帰ったりするのだそうです。小さいころから病弱だったそうで、病院に行く機会の多かった彼女にとっては、病院に行って、お医者の先生に身体的な苦痛を訴えることで、安心感やら安定感を得ていたのかもしれません。
女性って、悩みを打ち明けたい。悩みを聞いてもらいたい。と思うことが多いようですね。……あ、いまのわたしも、そうですけど。
女性で占いがすきな人が多いみたいなのは、じぶんの話を聞いてもらって、こうしたほうがいい、こうするといい、なんてことを、具体的に示してもらえるからかもしれない。なんて思ったりします。
で、病院ですけれど。あいにくわたしは、健康体そのもので、大きな病気というものをしたことがありませんから、病院に行く、ということもほとんどありません。
ああ、そうそう、一度、どうしても調子が悪くて、平日休みの折に病院へ行ったことがありますが。
ちょうどその前日、仕事を終えた後、職場の人たちと飲みに出かけたのですが、そのときに食した、馬刺し、あれが悪かったのかもしれません、お腹をこわしたようでした。下腹部の激痛をこらえて、なんとかひとりで病院に行き、じぶんが診察される番をじっと待っていました。周囲にはご老人しかいませんでした。わたしのすぐ後ろにいたおばあさんたちが、当時の若い女性のファッションのことや、芸能人同士の離婚騒動のことや、ご近所の奥さんの噂話やらをとめどもなく、延々と語りつづけていました。じんじんする下腹部の痛み、そして、人の噂話をするとき特有の、楽しそうな、狡猾そうなおばあさんたちの声音が、がんがん頭に響いて、なぜ、わたしは、せっかくの休日にこんなところにいるのだろう、と、とてもみじめな気持ちになりました。来なければよかった、腹痛が治まるまで、家で大人しく寝ていればよかった、と思ったことをいまだに覚えています。
それ以来、ますます病院に縁遠くなったわたしにとっては、やはり、平日に病院に行ける、というのは、メリットでもなんでもありませんでした。
ともかく、社会人になってから、はじめての土日休み。48時間もじぶんの自由に使える時間がある、と考えると、うれしくて、なにをしようか迷ってしまうところですが。
わたしには、やらなくてはいけないことがありました。
二日後にやって来る、というインド人エンジニアとの対面に備えて、できるだけパソコンの、プログラミングの、専門用語を英語で覚えること。
……いまにして思えば、パソコンの専門用語、プログラミングの専門用語、だなんて、曖昧で広範囲すぎる概念だということは分かることですが、そのときにわたしは、なんでもいい、インド人エンジニアとしっかり会話できるようにならなければいけない、という強迫観念のようなものにとらわれていました。とにかく吸収できるものは片っ端から、と、朝から晩まで図書館にこもる決意をしました。
はじめての土日休み。それは、専門書の類を読み漁るだけに終始した二日間でした。
:13.オレンジシロップの底
気がつけば、すでに夕刻を過ぎていました。
きっと、あのガラス張りの通路から外を見渡せば、オレンジのシロップの底にインクみたいな青が乗った甘いカクテルのような色合いが、東京の街並みを見事に染め上げているにちがいない、と想像しました。
タカガキさん、スズキさんんは、いつのまにか外出されたかすでに帰宅されたようでした。おのおのの座席には、テレビの電源を消したあとのような、不思議な気配がかすかに残っているようで、そんな名残りを尻目に、マツキさん、ミヤモトさん、とつづいて帰宅されていきました。
そんななかで、わたしの座席からはちょうど斜めに対面となっているイトウさんの位置から、烈しく叩かれるキーボードの音と深いため息が聞こえてきました。なんとなく、咳払いなどしてみせると、
「あれ、まだいたの?」と。「静かだから、いるの分からなかったよ」
「なに、してるんですか?」
「うん? いまね、Rubyでちょっとしたプログラムを書こうとしてるんだけど、ドキュメントが英語ばっかりなんだよね」
「ルビィ?」かわいらしい名前ですが、いったい、なんのことだか分かりませんでした。
「あ、そういえばマキちゃん英語得意なんだよね?」
果たしてじぶんで得意といえるほど得意というのはどのくらい得意なことを言うのか。などと考え、なにもこたえずにいると、
「わるいけどさ、これ訳してくれない?」と。
イトウさんの席へ向かいパソコンの画面を見ると、膨大な英単語が連ねられた真っ白なページが表示されていました。なにかの前衛的なデザインのようにも見えました。どうやらプログラミングをするための文体、のようなものの説明のようでした。
虫のように連なる文章に目を走らせると、見たこともない単語がちらほらと混ざっていて、これは手に負えない、と思いましたが、なんとか分かる部分のみを伝えると、
「なるほどね、制御構造はスコープしないけど、イテレーターはスコープしないとだめなんだね」
と言いました。いったいなにを言っているのかさっぱり分かりませんでしたが、イトウさんは納得していたようでした。
見たこともない単語は、コンピューターのプログラムの専門用語なのか。と考えました。なるほど、専門用語。わたしのなかで、ひらめきが走りました。
「あのう、イトウさん」
「なに?」
「来週来る、インド人エンジニアのかた。そのかたも、この文体で仕事をする人ですか?」
「文体? ああ、言語ね。うん、おそらく、RubyじゃなくてCじゃないの?」
「シー? 海、ですか?」
「海?」イトウさんは、参った、というように笑いました。「いいや、シーって、ABCのCだよ。C言語っていうのがあるんだよ」
「C言語」わすれないように、イトウさんのことばを繰り返しました。
翌週来るという、インド人エンジニア。この人ももしかすると、コンピュータープログラミングの専門用語を使う人かもしれない。もしそうだとしたら、いまからでは遅いかもしれないけれど、多少なりともその知識を頭に入れておいたほうがいいのでは……。
そう思ったら、急に居ても立ってもいられないような気持ちになりました。
「やった、さっきまでエラッてのが通ったよ。マキちゃん、ありがとね」
プログラミングが成功したようで、イトウさんは大げさなくらい喜んでいました。
「さてと、これを仕上げて帰るとするか。金曜の夜だもんな」
わたしは、そうですね、とだけこたえて、『C言語』というものの英語の本を手に入れる方法について考えを巡らせていました。
「マキちゃんは帰んないの? 金曜の夜だぜ。これから飲み行く?」
とイトウさんがたずねてきたので、はっと顔を見ると、べつに深い意味はない、というのを装っているような、なんだかヘンな表情をしているように見えました。ねこが、なにかとぼけているときのような。
わたしもなんとなく、ヘンな気持ちになって、つと立ち上がりました。
「これから、寄らなきゃいけないところが、あるので」と言って。
そして、なるべくイトウさんのほうを見ないようにして、凸型のエリアを抜け、エレベーターに飛び乗り、ビルの外へと飛び出しました。
思っていた通り、外は、オレンジのシロップの底にインクみたいな青が乗った甘いカクテルのような夕方と夜の狭間にありました。
わたしは、いざ、『C言語』という未知の領域への一歩を踏み出すべく、歩き出しました。オレンジシロップの底を、たゆたいながら。
:12.つめたさの底
落とし穴。
清美ちゃん。が、先日電話で言ったことばをふと思い出しました。
なにか裏があるのかもしれない。と。
いいえ、裏もなにも、わたしの無能さを暴露して、ただ用無しになる。
ただそれだけの決着なのかもしれない。と。
いざ、ここを去るときが来たら。そのときは、そのとき。
なんて、腹をくくったようなつもりになってみたものの。やっぱりそのときが来るのは、こわい。と思いました。正確には、その『瞬間』を受け止めなくてはならないことが。でした。
じぶんがつらい、というよりも、ここにいるみなさんに不快な思いをさせてしまうかもしれないということに気が沈むのでした。
タカガキさんはきっとかなしい顔をなさるだろう、ミヤモトさんは「あらあ」なんて冗談めかしてつぶやくかもしれないけれどやはりかなしまれるかもしれない、イトウさんは……「へん」なんて鼻をならしてぷいっとどこかへ行ってしまうかも?
そんな不安な気持ちとは裏腹に、直線と灰色とに囲まれたビルのなかでなぜかそこだけ凸型に飛び出たわたしたちのいる『テリトリー』では、不思議にゆったりとした、おだやかな時間が流れていました。
こうして、このまま、ここで、ときが止まってしまえばいいのに。
そんなことを考えたりしました。すると、ひとつの思考は、光の速さを超えるスピードで、別の思考を連れてきます。
いいえ、さいしょから、ここに来なければ良かったのだ。と。
あのとき、ノザキ課長があらわれるまえに去ればよかったのだ。と。
あのとき、パンチの社長の、あの会社に行かなければよかったのだ。と。
あのとき、アルバイト情報誌の求人を見つけなければよかったのだ。と。
あのとき、元彼の言ったことばを思い出さなければよかったのだ。と。
あのとき、彼と別れなければよかったのだ。と。
あのとき、彼と付き合わなければよかったのだ。と。
あのとき、彼と出会わなければよかったのだ。と。
それより、彼と出会うことになったきっかけ――それは、短大のサークルでしたから、あのサークルに入らなければよかったのだ。と。
そもそも、あの短大に行かなければよかったのだ。と。
それより、あの短大に行くことになったきっかけ――それは、高校の担任の先生にすすめれられたからでしたから、あの高校に行かなければよかったのだ。と。
そもそも、あの高校に行くことになったきっかけ――それは、両親にすすめられたからでしたから、……
ずっと、ずっと遡っていくと、
わたしが、わたしでなかったら、よかったのだ。
という自己否定に帰着することになりました。
ぞっとするようなおそろしさにおそわれながらも、妙な可笑しさがこみあげてくるような、つめたさの底に沈む気持ちでした。
:11.ビールと発泡酒
その後すぐ、タカガキさんが出社されました。やっぱり、昨日わたしがなんてさわやかな人なのだろうと思ったのは、まちがいではありませんでした。颯爽とあらわれ、よく通るのだけれど耳当たりの良い声で挨拶をし、きびきびとなさっていました。
ぼんやりとその様子を見ていると、わたしのところにふっとやって来て、「どうですか?」と訊ねてこられました。なんのことかとタカガキさんの顔をのぞくと、とてもやさしい笑顔を返してこられました。入社したばかりのわたしのことを気遣ってくださっているのだ、と分かり、あわてて、「だいじょうぶです」とこたえました。いったいなにが、どうですか? なのか。いったいどこが、だいじょうぶ、なのか。じぶんでもそう思ってしまいましたが、それだけをこたえるのが精一杯でした。
つづいて、イトウさんが出社されました。だるそうに手足をぶらぶらさせながら、ゆっくりと自席に着いて、深いため息をつかれていました。
その後、最後に、マツキさんがあらわれました。はっと、ひと目見ただけで、着ていらっしゃる服がおろし立てのものであることが分かりました。きっと、とても高価なものなのだろうなという素晴らしい仕立ての、その当時流行していたデザインのスーツでした。でも、なんとなく、違和感を覚えました。いえ、似合っていなかった、というわけではありませんけれど。いったいなんだろう? と思っていると、ミヤモトさんが、
「あれえ、マツキさん、髪切った?」とたずねられました。
すると、マツキさんは、ややばつが悪そうな表情をして、「ええ、まあ」と。
ああ、なるほど、昨日と印象がちがうのは、髪型のせいだ、と気がつきました。全体の長さはほとんど変わっていませんでしたが、昨日よりも軽くなっていて、髪の色も若干明るくなったように見えました。
「昨日、ちょっと、知り合いの美容室に寄ったら、切られちゃって」
「美容師のお友だちもいるんですか?」とわたしがたずねると、「ええ、まあ」と。
「マツキさん、今日は香水もつけてるでしょう?」ミヤモトさんがおっしゃられました。「今日はデート?」
マツキさんは、「ああ、これは、昨日、フランス土産で母からもらった香水なんです」とだけこたえられました。
その香りが、カルバン・クラインというニュー・ヨークのデザイナーのものに似ている、と思い、いったいなんという香水なのかとたずねようとしましたが、なんとなく訊くのがためらわれ、なにも言いませんでした。
朝のばたばたとした時間が過ぎていくと、凸型に飛び出たわたしたちのグループの一角だけが、この会社からも、世間からも切り離されたような、不思議とゆったりとした空気に支配されているようでした。
ときどきミヤモトさんとスズキさんが会話をしているくらい、というか、ミヤモトさんが一方的に話しかけて、それをスズキさんが軽くあしらっているような感じでしたが、ともかく、ほかのみなさんはほとんど会話をせず、じっと、パソコンの画面に向かっていました。
それまでお客さん商売をしていたわたし、一日中話し声やら雑踏やらのなかで過ごしていたわたし、にとっては、慣れるまでは、なんとなく居心地がわるいものでした。
昨日イトウさんに教えていただいたことを復習するように、同じ作業をなぞらえながら、なんとなく、ミヤモトさんとスズキさんの会話を聞いていると、
「ねえ、ユタカ、アウトルックのことでちょっと訊きたいことがあるんだけど」
「アウトルックって。ミヤモトさんが使ってるのは、アウトルック・エクスプレスでしょう? 言っとくけど、『アウトルック』と『アウトルック・エクスプレス』はまったく別物だからね」
どうやらソフトの名称を略さずにきちんと言え、ということなのだろう、と想像しました。同じもののような気がしましたが、なにがちがうのだろう? 微妙に似ているようでまったくちがうもの、……ビールと発泡酒ぐらいちがうということだろうか? なんてことを考えたり。
ミヤモトさんが、「ごめん。でさ、アウトルック・エクスプレス、のことで訊きたいんだけど、いい?」と言うと、
「だめ。いま手が離せないから」と、すげないこたえ。
イトウさんが大きな声でおかしそうにわらうので、みんなもつられて笑ってしまいました。
こうしてここで、おだやかでゆっくりとした時間を過ごせるのは、今日で最後かもしれない。ふっと、そんなふうに考えました。翌週になれば――その日は金曜日でした――、『インド人エンジニア』がやって来る、そして、もしかするとわたしは、そこで用無しの烙印を押され、ここを去ることになるかもしれないのだ、と。
もし、そうなってしまったら。四の五の言わず、潔く、じぶんの無能さを認め、きっぱりとここから出て行こう。
イトウさんのものであるとすぐに分かる、深い吐息や舌打ちの音に耳をそばだてながら、そんな決意を固めていました。
:10.冷たい光
わたしの、あの会社での『経歴』は、『インド人エンジニア』が来るまでの、ほんのわずかな期間に限られているのかもしれない。
翌朝、なぜかそんな気がしました。
来週早々インド人の開発者がやって来る、通訳としてわたしが紹介される、そして一言二言話しただけで早口のインド訛りの英語がまったく聞き取れないことが分かり茫然とするわたし、インド人は呆れ顔、その日の夕方ノザキ課長がやって来てわたしの肩をぽんと叩く……そんな想像とも夢ともつかないようなものにうなされて、朝寝のまどろみのうつつから目を覚ましました。
憂鬱な気持ちをかかえたまま出社すると、ミヤモトさんがすでに出社されていて、駅の売店で買ったと思われるコーヒーをすすりながら、パソコンの画面に熱心に見入っていました。ミヤモトさんは、朝出社されると、まずネットのニュースサイトを見るのが日課なのでした。
ミヤモトさんの向かいに、昨日紹介されなかった人が席にいるのが分かりました。その人も、菓子パンをかじりながらパソコンの画面に見入っていました。この人がきっと昨日課長の言っていたスズキさんというかただろうと思い、そのかたのほうをじっと見ていると、ミヤモトさんが、
「あ、そういえば、昨日はユタカいなかったんだよね」と言いました。
すると、そのかたが、「うん」と言って、のっそりと顔を上げました。
黒ぶちの眼鏡をかけ、がっしりとした体躯をした、いかにもパソコンに詳しそうな、いかにも仕事のできそうな、いかにも真面目そうなかたでした。
「こちら、ミスミさん。昨日からうちに来たんだよね」ミヤモトさんがわたしを紹介してくださいました。
「はじめまして。スズキ・ユタカです」
じっとわたしを覗き込む眼鏡の奥の小さな目が、まるで機械の性能を測っているかのような、冷たい光を放っているように思え、一瞬、尻込みしそうになりましたが、そんな思いを抑えて、あわててぺこりと頭を下げ、ありきたりの自己紹介のあいさつを返しました。
わたしの無能さを真っ先に見抜くとするなら、この人にちがいない。――そんな恐怖心を植え付けられるような眼差し。
わたしのなかで、スズキさんが畏怖する存在となったのは、そのときからでした。
:9.セイコウイ
その日の夜、さきほどもお話しした清美ちゃんという短大時代の友人に、ひさしぶりに電話をしてみました。わたし、じぶんから電話をしたり、メールをしたりなんてことをするの、あまりないことなのですけれど、その日は、なぜか、だれかと話をしたかったのです。
電話をしたら、清美ちゃんは、仕事中のようでしたがよろこんでくれました。
「やあだア、真希ちゃん、元気なのう?」と、いつものびっくりするほどおもしろい抑揚の利かせ方で、あっけらかん、と言うので、つい笑ってしまいました。
「うん、元気。清美ちゃんは?」
「あたしイ? あたしはねえ、元気なんだけどねえ、なんかさあ、さいきん、水疱瘡になっちゃったみたいなんだよねえ」
「みずぼうそう?」
「ウン、口の周りにぽつぽつ発疹しちゃってさあ、こんな顔じゃあ、店に出れないよお」
「そんなにひどいの?」
「ウン、もう、カユイってゆうより、イタイ、って感じなの。なんか、ちっちゃいときにかかった水疱瘡とは、チョット、ちがうカンジなんだよねえ」
「あのさ、清美ちゃん、それってさ、水疱瘡じゃなくて、ヘルペスなんじゃない?」
「えええ、真希ちゃん、ヒッドーイ。ヘルペスって性病のことでしょう? いくらあたしだって性病うつされたりなんかしないよお」
「性病じゃないよ、ヘルペスは。ウィルス性のものだから、ええと、セ、性行為によって感染することもあるみたいだけど」
「やあだア、真希ちゃん、セイコウイ、だってえ。要はエッチってことでしょう」
「う、うん、ええとね、だから、風邪ひいたり、ストレスとか疲れが溜まってたりなんかして、抵抗力が弱まってるときに感染しやすくなるんだって。べつに、セ、……」
「セイコウイだけで感染するってワケじゃあないってことなのね。ふうん。で、真希ちゃんはさいきん、どうなの? セイコウイのほうは?」
なんて調子で、清美ちゃんには、さんざんからかわれてしまいました。でも、それは彼女のいつもの言い方で、むしろ、全然変わっていないことをうれしく思ったものでした。
清美ちゃんの近況を聞いた後、わたしは、じぶんがM電機に勤めはじめることになったいきさつを話しました。清美ちゃんは、
「えええ、真希ちゃん、それ、まじい? M電機に勤めだしたのう? いいなあ」
と、心からおどろいた様子でした。
「あたしも、その会社、なんだっけ? インターテックってとこ? に行ってみようかなあ。あたしもパソコン使えるようになりたいんだよねえ。CGの勉強がしたくって」
「CGって、コンピューターグラフィックス?」
「そう。デジハリ行くのに金貯めてんだけど、なかなか貯まんなくてさあ」
「デジハリ? なにそれ、学校? いくらくらいかかるの?」
「入学するのに、ン百万はかかるんだよね。ああーあ、お水やめて風俗にしようかなあ」
『デジハリ』というのは、グラフィックやDTP、ホームページ制作などを学べる専門学校のことです。その道では有名な学校のようで、ちょうど、清美ちゃんもパソコンの技術を身につけたいと思っていたところだったのです。わたしは、別れる直前に元の彼が言ったことばに従って、じぶんの道をじぶんで切り開けたことに、ほんの少し、誇らしい気持ちになりました。
「でもさあ、真希ちゃん、気をつけなよお。そうゆう大きい会社に簡単に入れるなんて、なんか裏がありそうじゃない?」
そんな気持ちに水を注すように清美ちゃんが、急に真剣な調子で言いました。わたしは、その言葉に呼び戻されて、
「え? 裏って?」とたずね返しました。
「いやあ、よくわかんないけどさあ。ヅラの社長とか、なんだっけ、課長の、ぬらりひょんだっけ? とかに騙されたりしないようにね」
いつにない深刻な言い方で、はっとさせられました。彼女の言うとおり、やはり、だれがどう考えてもおかしいことなのだと気づかされたのです。なにか落とし穴があるのはないか、と。だって、なんにも知らない、まったくの素人のわたしが、ただ英語ができる(であろう)というだけで、なぜあんな大きな企業に入り込むことができるというのでしょう? いい気になって調子に乗っていると、そのうち、思ってもみないことが身に降りかかってくるとも限らないのでは……
「そうだよね。清美ちゃん、ありがとう」
じぶんにそう言い聞かせるようにして、いつ、なにが起きても、足元をすくわれないようにしなくては、と気持ちを引き締めることができました。
電話を終えた後、じぶんの身に降りかかりえることを考えて、翌週に来るというインド人のエンジニアのことをふいに思い出しました。すっかり舞い上がっていて、大切なことを忘れていたのです。ただでさえ人と話をするのも苦手なのに、外国人の、バリバリの技術者のかたと普通に会話することができるのだろうか、と思うと、憂鬱な気持ちになりました。けれど、もし、それができなければ、きっと、干されることになるだろうというのは、わたしにも理解できることでした。きっと、社長からも、ノザキ課長、タカガキさん、イトウさん、マツキさん、ミヤモトさんからも軽蔑されて、もう二度とあの会社に近づくことすらできなくなる、と。
そんなことがあってはならないし、そんなことになってはいけない。
なにがなんでも、インド人と、流暢に会話してみせなくては。
憂鬱な思いと決意とが入り混じった奇妙な苛立ちを押し込めるように、その夜も、意識を遠くに追いやって眠りにつきました。
その夜の夢に、なぜか、イトウさんが出てきました。あの、にせものみたいな白い歯を見せて、にっと笑っていました。
:8.ぬらりひょん
イトウさんは、なにも言わず、ただ、にっと笑ってみせました。
なにか言うべきなのかもしれなかったのですが、なにを言えばいいのか分からず、わたしも、ただ笑ってみせました。
つづいて課長は、「おおい、タカガキくん」と声をかけました。
すると、イトウさんの向かいの席から男性が顔を出しました。そのとき、はじめて対面にも座席があることを知りました。
タカガキさんと呼ばれたかたは、いかにも好青年、という感じのさわやかな笑顔でわたしを見ました。
「タカガキくん、このチームのリーダーなの」課長が説明すると、タカガキさんが快活な調子で、
「第一シス開・第二ソル・システムグループリーダーの、タカガキです」と言いました。あまりのさわやかさに、どきっとして、よろしくおねがいしますとかなんとかこたえるのもうっかり忘れてしまったくらいです。
「あと、ほかにスズキくんと、派遣で来てもらってるタマルくんっていう人がいるの。二人はまだ出社してないけど」
これで、一通り紹介が済みました。
株式会社M電機、第一システム開発部・第二ソリューション事業課・システムグループ、のメンバーです。
課長が去り、わたしは、マツキさんの対面の席を用意され、座席に着きました。目の前には、真新しいぴかぴかのノートパソコンが置いてありました。きっと、そのパソコンを開いて、なにかしなくてはならないのだと思ったのですが、どのように扱っていいか見当もつかず、呆然としていると、イトウさんがやって来て言いました。
「ぬらりひょんが言ってたけど、パソコン、さわったことないんだよね?」
わたしは、なんのことかと、イトウさんを見返しました。イトウさんは、
「ああ、ぬらりひょんって、さっきの課長。なんかさ、ぬらあっとしてるじゃん」あっけらかん、と言い放ちました。
「ぬらりひょんって言ったら、あいつのことだから。覚えといて。NZって呼んでるやつもいるけど」
「エヌゼット?」
「ノザキっていう苗字だから」
そんな調子で、イトウさんは、わたしの後ろに立ち、専門用語やら内輪言葉やらダジャレやらを織り交ぜて、あれやこれやとパソコンの使い方を教えてくれました。イトウさんの話にくすくす笑いながら、少しずつ扱い方を覚えていくのはたのしい作業でした。まるで、新しいゲームをやりはじめて、夢中になるような、そんなおもしろさがありました。
「マキちゃん、筋がいいね」名前を呼ばれて、わたしは、はっとイトウさんの顔を見ました。イトウさんは、また、にっと笑って、
「一回教えたこと、ちゃんと覚えてるもんね」と言いました。わたしは、なにもこたえず、パソコンのディスプレイに視線を戻しました。
「でもさ」イトウさんはつづけました。「初心者のうちだけなんだよ。おんなじこと二回訊いても怒られないのは」
じぶんのすぐ横にあるイトウさんの顔に目を移すと、
「訊けるときに、なんでも訊いてきなよ」と言いました。
訊けるときに、なんでも。
それは、分かったようなふりをして、じつは分かっていないのではという心配からなのか。分からないことがあるのに、気後れから訊くことができないのではという気遣いからなのか。初心者らしくもない、かわいげがない、とでもいう嘆きからなのか。分かったつもりになっていると、あとで痛い目を見るぞという警告の意味なのか。さまざまな憶測をしましたが、いずれにせよ、わたしは、
「そうですね。訊けるときに、訊いておきます」と、言われたことばをそのまま返してみせるしかできませんでした。
お昼休み、ミヤモトさんとマツキさんといっしょに食事をしながら、いろいろな話を聞きました。
さいしょに、ミヤモトさんは社内事情を説明してくださいました。
それにより、タカガキさんをはじめ、イトウさん、スズキさん、マツキさんは、みなM電機の社員のかたなのだと思っていたのですが、じつは、M電機の系列会社のMOSというところからの出向だということが分かりました。MOSというのは、「M電機ソフトウェア」の略なのだそうです。ノザキ課長も、MOSの人だということでした。実際、M電機の正社員だというかたは、M電機内で働いている中でも、ごくわずかなのだそうです。
それから、ミヤモトさんは、同じインターテックというところから派遣で来ているという話でしたが、元は別の派遣会社に所属していて、そこからインターテックを経て、M電機に来ているという、いわば派遣の派遣だということでした。
タマルくんという派遣のかたは、三ヶ月間だけの助っ人として呼ばれた人だそうで、あまり会社に来ることはない、とのことでした。
いろいろな人が、いろいろな形態で働いている、ということを知り、驚くとともに、じぶんがそれほど浮いた存在ではないのかもしれないと思いはじめ、ほっとしたものでした。
もしかするとミヤモトさんは、不安を隠しきれず、なんにも知らない様子のわたしのために、気配りから話をしてくださったのかもしれません。ミヤモトさんは、あっさりとした物言いをする人でしたから、気を遣わずに会話することができました。ときどきびっくりするようなことも言いましたけれど。
「コマツさん、ってさあ」とにやにやしながら、言いはじめるには、
「あ、インターテックの社長のことね、あの人ってさあ、ヅラだよね」なんてことも。
わたしは、びっくりして、え? とたずねかえしました。
「あのパンチ、ぜったい地毛じゃないよね」
わたしは、そんなこと考えたこともない、というか、そこまで社長の頭髪を見ていなかったので、さあ、と首をかしげました。ミヤモトさんは、
「ぜったいそうだよ。あたし、はじめてあの人に会ったときから、ずっとそうだと思ってたんだよね」と豪語して譲りませんでした。
「ちなみにね、コマツさんってのは、ノザキ課長の部下だったことがあるみたい。いまは独立してインターテックっていう会社をやってるんだけど。昔のよしみで、ノザキ課長に派遣を紹介させてもらってるんだって」
その説明で、社長とノザキ課長の関係に納得しました。こころの中で、ミヤモトさんの配慮に感謝しました。
かたや、マツキさんは、テレビドラマや人気のある俳優さんのこと、海外旅行に行ったときの話や、海外のブランド物のことなどをぽつぽつと話す人でした。どれもわたしには興味のない世界の話でしたが、よくそんなにブランド物を買えるのね、と言ってみせると、
「スチュワーデスをやってる友だちがいるんで、免税品が買えるんです」とこたえました。
スチュワーデスの友だち。やはり、見た目の通り、じぶんとはかけ離れた世界のひとなのかもしれない、と思いました。きっと、お嬢さま育ちのかたなのだろう、と。そんなひととじぶんが、同じ会社の同じ部署で働くことになったということに不思議な思いがしました。
と同時に、わたしは、じぶんの数少ない友人のことをふっと思い返しました。いえ、友人を比べる、というわけではないのですが、じぶんにはどんな友だちがいるだろう? と振り返りたくなったのです。
高校時代の友人とは疎遠だし。短大時代いちばんの仲良しだったさゆりちゃんは名古屋に帰り、デパートで働きながら名古屋嬢と闘っていると言っていました。あまり短大には来ていない子だったけれど、一度ノートを貸してあげてから仲の良くなった清美ちゃんは、遊ぶお金欲しさに、夜の仕事をするようになってしまったと聞きます。それから、『恋のから騒ぎ』という素人の若い女性がいわゆる女のぶっちゃけトークというものをするテレビ番組に一度出演してから、短大の中で有名人になった亜佐美ちゃんは、いまでは芸能界入りを目指して、タレント養成所のようなところで特訓中だと。
みんな、元気かしら? わたしが、なにかのまちがいだとしても、M電機で働きはじめ、パソコンのスキルを身につけようとしている、なんてことを知ったら、びっくりするだろうか? ――そんなことを考えました。
その日の仕事を終え、帰り際、ガラス張りの通路から外へと眺めると、東京タワーがビルとビルの間から、ほんのすこし、てっぺんをのぞかせているのが見えました。
これまでに見たこともないような都会の夜の景色を一望しながら、なにかの幸運でこの会社に来ることができたことの感謝の気持ちを新たにしました。
なにがあっても、この会社でがんばっていこう、と。