:8.ぬらりひょん
イトウさんは、なにも言わず、ただ、にっと笑ってみせました。
なにか言うべきなのかもしれなかったのですが、なにを言えばいいのか分からず、わたしも、ただ笑ってみせました。
つづいて課長は、「おおい、タカガキくん」と声をかけました。
すると、イトウさんの向かいの席から男性が顔を出しました。そのとき、はじめて対面にも座席があることを知りました。
タカガキさんと呼ばれたかたは、いかにも好青年、という感じのさわやかな笑顔でわたしを見ました。
「タカガキくん、このチームのリーダーなの」課長が説明すると、タカガキさんが快活な調子で、
「第一シス開・第二ソル・システムグループリーダーの、タカガキです」と言いました。あまりのさわやかさに、どきっとして、よろしくおねがいしますとかなんとかこたえるのもうっかり忘れてしまったくらいです。
「あと、ほかにスズキくんと、派遣で来てもらってるタマルくんっていう人がいるの。二人はまだ出社してないけど」
これで、一通り紹介が済みました。
株式会社M電機、第一システム開発部・第二ソリューション事業課・システムグループ、のメンバーです。
課長が去り、わたしは、マツキさんの対面の席を用意され、座席に着きました。目の前には、真新しいぴかぴかのノートパソコンが置いてありました。きっと、そのパソコンを開いて、なにかしなくてはならないのだと思ったのですが、どのように扱っていいか見当もつかず、呆然としていると、イトウさんがやって来て言いました。
「ぬらりひょんが言ってたけど、パソコン、さわったことないんだよね?」
わたしは、なんのことかと、イトウさんを見返しました。イトウさんは、
「ああ、ぬらりひょんって、さっきの課長。なんかさ、ぬらあっとしてるじゃん」あっけらかん、と言い放ちました。
「ぬらりひょんって言ったら、あいつのことだから。覚えといて。NZって呼んでるやつもいるけど」
「エヌゼット?」
「ノザキっていう苗字だから」
そんな調子で、イトウさんは、わたしの後ろに立ち、専門用語やら内輪言葉やらダジャレやらを織り交ぜて、あれやこれやとパソコンの使い方を教えてくれました。イトウさんの話にくすくす笑いながら、少しずつ扱い方を覚えていくのはたのしい作業でした。まるで、新しいゲームをやりはじめて、夢中になるような、そんなおもしろさがありました。
「マキちゃん、筋がいいね」名前を呼ばれて、わたしは、はっとイトウさんの顔を見ました。イトウさんは、また、にっと笑って、
「一回教えたこと、ちゃんと覚えてるもんね」と言いました。わたしは、なにもこたえず、パソコンのディスプレイに視線を戻しました。
「でもさ」イトウさんはつづけました。「初心者のうちだけなんだよ。おんなじこと二回訊いても怒られないのは」
じぶんのすぐ横にあるイトウさんの顔に目を移すと、
「訊けるときに、なんでも訊いてきなよ」と言いました。
訊けるときに、なんでも。
それは、分かったようなふりをして、じつは分かっていないのではという心配からなのか。分からないことがあるのに、気後れから訊くことができないのではという気遣いからなのか。初心者らしくもない、かわいげがない、とでもいう嘆きからなのか。分かったつもりになっていると、あとで痛い目を見るぞという警告の意味なのか。さまざまな憶測をしましたが、いずれにせよ、わたしは、
「そうですね。訊けるときに、訊いておきます」と、言われたことばをそのまま返してみせるしかできませんでした。
お昼休み、ミヤモトさんとマツキさんといっしょに食事をしながら、いろいろな話を聞きました。
さいしょに、ミヤモトさんは社内事情を説明してくださいました。
それにより、タカガキさんをはじめ、イトウさん、スズキさん、マツキさんは、みなM電機の社員のかたなのだと思っていたのですが、じつは、M電機の系列会社のMOSというところからの出向だということが分かりました。MOSというのは、「M電機ソフトウェア」の略なのだそうです。ノザキ課長も、MOSの人だということでした。実際、M電機の正社員だというかたは、M電機内で働いている中でも、ごくわずかなのだそうです。
それから、ミヤモトさんは、同じインターテックというところから派遣で来ているという話でしたが、元は別の派遣会社に所属していて、そこからインターテックを経て、M電機に来ているという、いわば派遣の派遣だということでした。
タマルくんという派遣のかたは、三ヶ月間だけの助っ人として呼ばれた人だそうで、あまり会社に来ることはない、とのことでした。
いろいろな人が、いろいろな形態で働いている、ということを知り、驚くとともに、じぶんがそれほど浮いた存在ではないのかもしれないと思いはじめ、ほっとしたものでした。
もしかするとミヤモトさんは、不安を隠しきれず、なんにも知らない様子のわたしのために、気配りから話をしてくださったのかもしれません。ミヤモトさんは、あっさりとした物言いをする人でしたから、気を遣わずに会話することができました。ときどきびっくりするようなことも言いましたけれど。
「コマツさん、ってさあ」とにやにやしながら、言いはじめるには、
「あ、インターテックの社長のことね、あの人ってさあ、ヅラだよね」なんてことも。
わたしは、びっくりして、え? とたずねかえしました。
「あのパンチ、ぜったい地毛じゃないよね」
わたしは、そんなこと考えたこともない、というか、そこまで社長の頭髪を見ていなかったので、さあ、と首をかしげました。ミヤモトさんは、
「ぜったいそうだよ。あたし、はじめてあの人に会ったときから、ずっとそうだと思ってたんだよね」と豪語して譲りませんでした。
「ちなみにね、コマツさんってのは、ノザキ課長の部下だったことがあるみたい。いまは独立してインターテックっていう会社をやってるんだけど。昔のよしみで、ノザキ課長に派遣を紹介させてもらってるんだって」
その説明で、社長とノザキ課長の関係に納得しました。こころの中で、ミヤモトさんの配慮に感謝しました。
かたや、マツキさんは、テレビドラマや人気のある俳優さんのこと、海外旅行に行ったときの話や、海外のブランド物のことなどをぽつぽつと話す人でした。どれもわたしには興味のない世界の話でしたが、よくそんなにブランド物を買えるのね、と言ってみせると、
「スチュワーデスをやってる友だちがいるんで、免税品が買えるんです」とこたえました。
スチュワーデスの友だち。やはり、見た目の通り、じぶんとはかけ離れた世界のひとなのかもしれない、と思いました。きっと、お嬢さま育ちのかたなのだろう、と。そんなひととじぶんが、同じ会社の同じ部署で働くことになったということに不思議な思いがしました。
と同時に、わたしは、じぶんの数少ない友人のことをふっと思い返しました。いえ、友人を比べる、というわけではないのですが、じぶんにはどんな友だちがいるだろう? と振り返りたくなったのです。
高校時代の友人とは疎遠だし。短大時代いちばんの仲良しだったさゆりちゃんは名古屋に帰り、デパートで働きながら名古屋嬢と闘っていると言っていました。あまり短大には来ていない子だったけれど、一度ノートを貸してあげてから仲の良くなった清美ちゃんは、遊ぶお金欲しさに、夜の仕事をするようになってしまったと聞きます。それから、『恋のから騒ぎ』という素人の若い女性がいわゆる女のぶっちゃけトークというものをするテレビ番組に一度出演してから、短大の中で有名人になった亜佐美ちゃんは、いまでは芸能界入りを目指して、タレント養成所のようなところで特訓中だと。
みんな、元気かしら? わたしが、なにかのまちがいだとしても、M電機で働きはじめ、パソコンのスキルを身につけようとしている、なんてことを知ったら、びっくりするだろうか? ――そんなことを考えました。
その日の仕事を終え、帰り際、ガラス張りの通路から外へと眺めると、東京タワーがビルとビルの間から、ほんのすこし、てっぺんをのぞかせているのが見えました。
これまでに見たこともないような都会の夜の景色を一望しながら、なにかの幸運でこの会社に来ることができたことの感謝の気持ちを新たにしました。
なにがあっても、この会社でがんばっていこう、と。