:9.セイコウイ


 その日の夜、さきほどもお話しした清美ちゃんという短大時代の友人に、ひさしぶりに電話をしてみました。わたし、じぶんから電話をしたり、メールをしたりなんてことをするの、あまりないことなのですけれど、その日は、なぜか、だれかと話をしたかったのです。

 電話をしたら、清美ちゃんは、仕事中のようでしたがよろこんでくれました。

「やあだア、真希ちゃん、元気なのう?」と、いつものびっくりするほどおもしろい抑揚の利かせ方で、あっけらかん、と言うので、つい笑ってしまいました。

「うん、元気。清美ちゃんは?」

「あたしイ? あたしはねえ、元気なんだけどねえ、なんかさあ、さいきん、水疱瘡になっちゃったみたいなんだよねえ」

「みずぼうそう?」

「ウン、口の周りにぽつぽつ発疹しちゃってさあ、こんな顔じゃあ、店に出れないよお」

「そんなにひどいの?」

「ウン、もう、カユイってゆうより、イタイ、って感じなの。なんか、ちっちゃいときにかかった水疱瘡とは、チョット、ちがうカンジなんだよねえ」

「あのさ、清美ちゃん、それってさ、水疱瘡じゃなくて、ヘルペスなんじゃない?」

「えええ、真希ちゃん、ヒッドーイ。ヘルペスって性病のことでしょう? いくらあたしだって性病うつされたりなんかしないよお」

「性病じゃないよ、ヘルペスは。ウィルス性のものだから、ええと、セ、性行為によって感染することもあるみたいだけど」

「やあだア、真希ちゃん、セイコウイ、だってえ。要はエッチってことでしょう」

「う、うん、ええとね、だから、風邪ひいたり、ストレスとか疲れが溜まってたりなんかして、抵抗力が弱まってるときに感染しやすくなるんだって。べつに、セ、……」

「セイコウイだけで感染するってワケじゃあないってことなのね。ふうん。で、真希ちゃんはさいきん、どうなの? セイコウイのほうは?」

 なんて調子で、清美ちゃんには、さんざんからかわれてしまいました。でも、それは彼女のいつもの言い方で、むしろ、全然変わっていないことをうれしく思ったものでした。

 清美ちゃんの近況を聞いた後、わたしは、じぶんがM電機に勤めはじめることになったいきさつを話しました。清美ちゃんは、

「えええ、真希ちゃん、それ、まじい? M電機に勤めだしたのう? いいなあ」

 と、心からおどろいた様子でした。

「あたしも、その会社、なんだっけ? インターテックってとこ? に行ってみようかなあ。あたしもパソコン使えるようになりたいんだよねえ。CGの勉強がしたくって」

「CGって、コンピューターグラフィックス?」

「そう。デジハリ行くのに金貯めてんだけど、なかなか貯まんなくてさあ」

デジハリ? なにそれ、学校? いくらくらいかかるの?」

「入学するのに、ン百万はかかるんだよね。ああーあ、お水やめて風俗にしようかなあ」

 『デジハリ』というのは、グラフィックやDTP、ホームページ制作などを学べる専門学校のことです。その道では有名な学校のようで、ちょうど、清美ちゃんもパソコンの技術を身につけたいと思っていたところだったのです。わたしは、別れる直前に元の彼が言ったことばに従って、じぶんの道をじぶんで切り開けたことに、ほんの少し、誇らしい気持ちになりました。

「でもさあ、真希ちゃん、気をつけなよお。そうゆう大きい会社に簡単に入れるなんて、なんか裏がありそうじゃない?」

 そんな気持ちに水を注すように清美ちゃんが、急に真剣な調子で言いました。わたしは、その言葉に呼び戻されて、

「え? 裏って?」とたずね返しました。

「いやあ、よくわかんないけどさあ。ヅラの社長とか、なんだっけ、課長の、ぬらりひょんだっけ? とかに騙されたりしないようにね」

 いつにない深刻な言い方で、はっとさせられました。彼女の言うとおり、やはり、だれがどう考えてもおかしいことなのだと気づかされたのです。なにか落とし穴があるのはないか、と。だって、なんにも知らない、まったくの素人のわたしが、ただ英語ができる(であろう)というだけで、なぜあんな大きな企業に入り込むことができるというのでしょう? いい気になって調子に乗っていると、そのうち、思ってもみないことが身に降りかかってくるとも限らないのでは……

「そうだよね。清美ちゃん、ありがとう」

 じぶんにそう言い聞かせるようにして、いつ、なにが起きても、足元をすくわれないようにしなくては、と気持ちを引き締めることができました。

 電話を終えた後、じぶんの身に降りかかりえることを考えて、翌週に来るというインド人のエンジニアのことをふいに思い出しました。すっかり舞い上がっていて、大切なことを忘れていたのです。ただでさえ人と話をするのも苦手なのに、外国人の、バリバリの技術者のかたと普通に会話することができるのだろうか、と思うと、憂鬱な気持ちになりました。けれど、もし、それができなければ、きっと、干されることになるだろうというのは、わたしにも理解できることでした。きっと、社長からも、ノザキ課長、タカガキさん、イトウさん、マツキさん、ミヤモトさんからも軽蔑されて、もう二度とあの会社に近づくことすらできなくなる、と。


 そんなことがあってはならないし、そんなことになってはいけない。

 なにがなんでも、インド人と、流暢に会話してみせなくては。


 憂鬱な思いと決意とが入り混じった奇妙な苛立ちを押し込めるように、その夜も、意識を遠くに追いやって眠りにつきました。


 その夜の夢に、なぜか、イトウさんが出てきました。あの、にせものみたいな白い歯を見せて、にっと笑っていました。