:6.七三


 翌朝。電話は、ありませんでした。だれからも。

 わたしは、身支度をし、言われた時間よりもだいぶ余裕を持って、家を出ました。そのとき、はじめて通勤ラッシュといわれる時間帯に山手線に乗りました。もう乗れない、というくらいの満員状態なのに、それでもぎゅうぎゅうと人が乗り込んで来るのですね。なんの覚悟もこころの準備もしていなかったので、あまりの混雑具合に不快になるより、ただ純粋にびっくりしたものです。いったいどれだけの人がこの電車のなかに押し込められているのだろう? どこからやって来て、どこへ向かおうとしているのだろう? などと考えたりしました。むろん、わたしもそのうちのひとりなのですけれど。

 短大の卒業式のときにも着た一張羅のスーツをよれよれにしながら、なんとか新橋駅まで辿り着きました。会社は、迷うことが困難なくらい駅からすぐのところにありました。大きなビルでした。

 ほんとうにこんなところでじぶんが働いていけるのか、という不安がよぎりましたが、意を決して、ビル内へ足を踏み入れました。いわゆる近代的なオフィスビルのようなところに入ったのがはじめてだったのでどうしていいか分からず、しばし呆然としていたのですが、後から来た人たちが受付に真っ直ぐ向かっていくのを見て、わたしもこわごわと受付へ向かいました。わたしの顔を見ると、受付のお人形のような女性が、一瞬、顔を曇らせたような気がしました。気のせい、かもしれませんけれど。わたしはあわてて、○○部○○課の○○課長さんを訪ねるようにと言われたのですが、と早口に言いました。

「失礼ですが、お名前様をお伺いできますか?」

 その女性は、機械のように抑揚のない声で言いました。はずかしくてたまらなくて、逃げ出したくなりましたが、なんとかじぶんの名前を告げると、お人形のような女性は、受付横のソファーを示し、あちらでお待ちください、と言いました。

 すばらしい座り心地のソファに身を沈めながら、いっそ、このまま課長さんが来なければいいのに。と思いました。来たとしても、「どなたですか?」なんて言ってくれたら、どんなに気が楽になるだろう? と。きっと、清々しい気分で、新橋駅を逆行できる、そんなふうに思っていました。



 五分くらい待ったでしょうか、ふいに、男の人が現われました。テレビドラマで見るような、髪を七三に撫で付けて、銀ぶちの眼鏡をし、グレーのスーツを着た、いかにもな課長さんでした。われに返って立ち上がり、なにかあいさつをしようとするのも待たず、

コマツが言ってた人だよね?」

 といきなり訊かれました。誰のことか分からず、口ごもっていると、

「インターテックの人だよね?」

 とさらに訊かれました。インターテックというのは、昨日わたしが面接に行った会社の名前です。

 わたしは、え、はい、とこたえました。

「そう、じゃあ、さっそく、行こう」

 と、いかにもな課長は、すぐさま身を翻して、ずんずん歩いて行ってしまいました。あわてて追いかけると、課長さんは、ぴかぴかの大理石が敷き詰められたエレベーターの前でぴたりと立ち止まり、くるりと振り返って、言いました。

「英語、できるんだよね?」

 その質問の意図を計りかねて、銀ぶち眼鏡の奥の薄い目をのぞき込むと、

「英検二級、持ってるんでしょ?」とさらに尋ねてきました。

 わたしは、え、はい、持っています、とこたえました。

「よかった」課長は薄い目をさらに細くして、ほっとため息をつきました。

 昨日のパンチの人といい、この七三の課長といい、英検二級を持っているということがいったいなんだというのだろう? と思っていると、課長は、黄色い歯を覗かせて、言いました。

「いや、来週ね、来ちゃうんだよ」

 わたしが、だれがですか? と訊こうとするのをさえぎって、課長は、「インド人」と言いました。

「英会話ができる人が居なくて、困ってたんだよ」

 眼鏡の奥の細い目が針のようにきらりと光ったような気がしました。