:7.つくりもののような


 さいしょ、インドの人が来る、と聞いたときは、いったいなんのことか分かりませんでした。

 無知なわたしは、この会社でカレーでも作るのかしら? なんて思ったものです。

 おかしいですよね。

 でも、すぐ後に知ったことですが、インドはIT先進国なんですね、優秀なコンピューターのエンジニアがたくさんいると。

 ちょうど七三の課長の部署で新たなプロジェクトを立ち上げようという動きがあって、インド支社のエンジニアが来日することになったそうなのです。

 これも、後から知ったことですが、どうやらわたしは、そのインド人エンジニアの秘書兼サポート兼通訳という役割を与えられるべく派遣されたらしいのです。

 でも、社長は、――あ、その前日に面接を受けたパンチパーマに真っ赤な裏地のスーツの人、が、インターテックという会社の社長です、――なにも言ってくれませんでしたし、七三の課長もなにも教えてくれませんでしたので、不安でいっぱいでした。果たしてわたしは、ここでやっていけるのか、と。

 そんな不安など気づきもせず、課長はずいずいとエレベーターに乗り込んでしまうので、わたしも着いていくしかありません。あやうく満員となってしまうところ、なんとか乗り込んだのですが、電車だけではなく、エレベーターでもこんなに混雑するものなのかと、ちょっと不思議な気がしました。

 エレベーターが動き出したとき、ガラス張りになっていて外が見えるエレベーターだということが分かりました。そのときは、こわい、と思って、外を見ることはできませんでしたけれど。

 最新のエレベーターだったのでしょう、あっというまに十三階に着きました。エレベーターを降りると、通路も一面ガラス張りになっていて、外の景色が一望できました。ここから夜景を見渡したらきれいだろうな、東京タワーも見えるかもしれない、なんて思っていると、課長がずんずんと先に歩いていくので、小走りにあとを追いました。パンプスのヒールが喰い込むほどやわらかなカーペットが敷き詰められていて、転ばないように着いていけるだろうかと思ったものでした。入り口のところまで来て、課長が首から下げたIDカードのようなものを扉脇のお弁当箱くらいの大きさの機械にピッと読み込ませると、鍵が開き、室内へ入ることができました。

 エントランスやエレベーター、通路の豪華さとは打って変わって、室内はごちゃごちゃとした、人と物がひきめきあった雑居部屋という感じでした。

 やはり課長がどんどん先に歩いていくのに着いていったのですが、いったいどこまで行くのだろう、というくらい、奥へ、奥へ行った、果てのところに、ちょうど凸型に飛び出た空間があり、そこに無理矢理のようにデスクが並べてありました。

 課長が、「みんな」と声をかけると、デスクとデスクの間のパーティションから、人の顔がにゅっと出てきました。

「今日から働いてもらうことになった、……何さんだっけ?」課長がわたしのほうを向き直りました。

「ミスミマキです」

「ああ、そう、ミスミマキさん。ええと、ハタチだっけ?」

「二十一です」

「そう。ええと、ミヤモトさん」と課長が声をかけると、手前から二番目の座席にいた女性が、はい、とこたえました。

「ミスミさん、インターテックの人なの。いろいろ教えてあげてね」

「ああ、そうなんですか」ミヤモトさんと呼ばれた女性が、身体を後方へのけぞらせてわたしのほうへ顔を向けました。一見してすぐ、かなり年齢が上のかただと分かりました。

「あたしもインターテックから来てるの。よろしくね」

 わたしは、え、はい、よろしくおねがいします。とこたえました。

「ええと、それから、マツキさん」

 ミヤモトさんの隣り、一番手前にいた女の子が、はい、とこたえました。受付のところにいた女性のように、固い表情をした人形のような女の子でした。

「この子、マツキリナちゃん。四月に入ったばかりの新卒。ミスミさんとは同世代だね」

「わたし、二十三ですけど」マツキさんと呼ばれたかたが事務的にこたえました。「わたしも入社したばかりで、分からないことだらけですけど。よろしくお願いします」

 わたしは、え、はい、よろしくおねがいします。とこたえました。

「それから……」課長は、奥のほうを覗き、「イトウくん」と声をかけました。

 すると、ミヤモトさんの隣りから男性がにゅっと顔を出しました。短めの髪に、浅黒い顔をしたひとでした。ひと目見た瞬間、その浅黒さは、健康的な日焼けによるものではない、ということが分かりました。肌とは対照的な白い目をぎょろっとさせてわたしの顔を見ると、にっと笑ってみせました。そのとき、まっしろな歯が見えて、思わず目を奪われました。あのときの印象を思い返したときにまっさきに浮かぶのは、不自然なくらいに白い、作り物のような歯、です。

「彼が、ミスミさんの教育係になるから」と課長が言いました。

「え?」わたしは、課長と、イトウさんと呼ばれた男性の顔を交互に見ました。

 イトウさんは、なにも言わず、ただ、にっと笑ってみせました。










:6.七三


 翌朝。電話は、ありませんでした。だれからも。

 わたしは、身支度をし、言われた時間よりもだいぶ余裕を持って、家を出ました。そのとき、はじめて通勤ラッシュといわれる時間帯に山手線に乗りました。もう乗れない、というくらいの満員状態なのに、それでもぎゅうぎゅうと人が乗り込んで来るのですね。なんの覚悟もこころの準備もしていなかったので、あまりの混雑具合に不快になるより、ただ純粋にびっくりしたものです。いったいどれだけの人がこの電車のなかに押し込められているのだろう? どこからやって来て、どこへ向かおうとしているのだろう? などと考えたりしました。むろん、わたしもそのうちのひとりなのですけれど。

 短大の卒業式のときにも着た一張羅のスーツをよれよれにしながら、なんとか新橋駅まで辿り着きました。会社は、迷うことが困難なくらい駅からすぐのところにありました。大きなビルでした。

 ほんとうにこんなところでじぶんが働いていけるのか、という不安がよぎりましたが、意を決して、ビル内へ足を踏み入れました。いわゆる近代的なオフィスビルのようなところに入ったのがはじめてだったのでどうしていいか分からず、しばし呆然としていたのですが、後から来た人たちが受付に真っ直ぐ向かっていくのを見て、わたしもこわごわと受付へ向かいました。わたしの顔を見ると、受付のお人形のような女性が、一瞬、顔を曇らせたような気がしました。気のせい、かもしれませんけれど。わたしはあわてて、○○部○○課の○○課長さんを訪ねるようにと言われたのですが、と早口に言いました。

「失礼ですが、お名前様をお伺いできますか?」

 その女性は、機械のように抑揚のない声で言いました。はずかしくてたまらなくて、逃げ出したくなりましたが、なんとかじぶんの名前を告げると、お人形のような女性は、受付横のソファーを示し、あちらでお待ちください、と言いました。

 すばらしい座り心地のソファに身を沈めながら、いっそ、このまま課長さんが来なければいいのに。と思いました。来たとしても、「どなたですか?」なんて言ってくれたら、どんなに気が楽になるだろう? と。きっと、清々しい気分で、新橋駅を逆行できる、そんなふうに思っていました。



 五分くらい待ったでしょうか、ふいに、男の人が現われました。テレビドラマで見るような、髪を七三に撫で付けて、銀ぶちの眼鏡をし、グレーのスーツを着た、いかにもな課長さんでした。われに返って立ち上がり、なにかあいさつをしようとするのも待たず、

コマツが言ってた人だよね?」

 といきなり訊かれました。誰のことか分からず、口ごもっていると、

「インターテックの人だよね?」

 とさらに訊かれました。インターテックというのは、昨日わたしが面接に行った会社の名前です。

 わたしは、え、はい、とこたえました。

「そう、じゃあ、さっそく、行こう」

 と、いかにもな課長は、すぐさま身を翻して、ずんずん歩いて行ってしまいました。あわてて追いかけると、課長さんは、ぴかぴかの大理石が敷き詰められたエレベーターの前でぴたりと立ち止まり、くるりと振り返って、言いました。

「英語、できるんだよね?」

 その質問の意図を計りかねて、銀ぶち眼鏡の奥の薄い目をのぞき込むと、

「英検二級、持ってるんでしょ?」とさらに尋ねてきました。

 わたしは、え、はい、持っています、とこたえました。

「よかった」課長は薄い目をさらに細くして、ほっとため息をつきました。

 昨日のパンチの人といい、この七三の課長といい、英検二級を持っているということがいったいなんだというのだろう? と思っていると、課長は、黄色い歯を覗かせて、言いました。

「いや、来週ね、来ちゃうんだよ」

 わたしが、だれがですか? と訊こうとするのをさえぎって、課長は、「インド人」と言いました。

「英会話ができる人が居なくて、困ってたんだよ」

 眼鏡の奥の細い目が針のようにきらりと光ったような気がしました。










:5.パンチと笑顔と悪い夢


 わたしにとってはじめてのデスクワーク。その勤務先は、いつかはと望んでいた、誰もが知っているような大企業といって差し支えないところでした。

 テレビのコマーシャルなんかでも見かけるような、いわゆる、大手電機メーカーです。しかも、おどろいたことに、明日からでもすぐに勤務してほしい、というのです。

 さいしょはじぶんの耳を疑いました。だって、なにも知らない、なんの経験もない、素人ですよ。パソコンのパ、の字も知らないのですから。

 『外国の工場』だとか『地下壕』などでなくて良かった、というよろこびよりも先に、

 わたしで大丈夫なのか? わたしなんかがやっていけるのか?

 という不安な気持ちのほうがむくむくとふくらみはじめました。けれど、そんな不安をよそに、パンチの人は、明日の初出社に際しての必要事項を次々説明していきました。

 会社の場所、出社時間、明日出社したら訪ねるべき人――○○部○○課の○○課長さん、とかなんとか。

 もう、いまさら後には引けないような気がして、わたしはただ黙って、機械的にその説明を手帳に書き取りました。

「――というわけで、急で申し訳ないけど、明日から頑張ってね」

 さいごに、パンチの人はくしゃっと笑って言いました。

 わたしは、え、はい、とだけこたえ、退きました。

 帰りながら、駅まで歩きながら、ローカルの長距離電車に揺られながら、上野駅の中をさまよいながら、地下鉄に乗りながら、考えていたのは、なんでこんなことになるのだろう、ということでした。わたしなんかが行ったって、門前払いを喰わされるのが落ちなのではないかしら、と。あるいは、門前払いされなかったとしても、わたしがなにもできないことを知ったら、その会社の人たちは、いったいどんな反応を示すのだろう? ――そう考えると、おそろしくなりました。

 明日訪れるべき、まだ見ぬ会社の人たち。いったいどんな人たちなのだろう? わたしを受け入れてくれるのかしら? いえ、さいしょから拒否されることよりも、むしろ、なにかのまちがいで紛れ込んでしまった私の素性を知って軽蔑されることのほうが、より酷なような気がしました。

 新しい仕事、新しい職場への期待などはなく、ただただ恐怖でむねがいっぱいになりました。



 悪い夢であってほしい。一晩やすんで、朝になったら、やっぱりあの話はなかったことにして、なんて、パンチのひとから電話がかかってくるのではないか。なんて。そんなことを考えたりして、できるだけ明日の、憂鬱なことは考えないようにしました。

 なにもかも忘れ、目を閉じて、深い眠りに落ちてしまえば、なにかが変わっているかも? ――そう考えるようにしました。










:4.赤い牡丹


 重々しい鉄の扉を開けると、室内では、事務員らしき女性と、パンチパーマにダブルのスーツを着た、まるでヤクザ映画の端役みたいな風貌の男のひとがひとり、待ち構えていました。

 まちがえました。――なんて言って、そのまま扉を閉めて、帰ってしまうこともできたはずです。けれど、わたしには、その扉を閉める勇気すらなかったのです。

 扉のまえに立ったままでいると、パンチパーマの男のひとがわたしを見て、

「ああ、いらっしゃい」と言いました。なにもかも、すべて了承済み、という感じでした。

「昨日、電話した人だよね?」と言うので、うなづいてみせると、くしゃっとした笑顔で、どうぞ、と中にすすめました。ためらっていると、さらにどうぞどうぞとすすめるので、心を決めて、足を踏み入れました。

 小さな室内には、応接セットというのでしょうか、二人掛けの革張りのソファーが向かい合って二つ並び、その間には、白いレースのテーブルクロスにガラスの灰皿がのったテーブルが置いてありました。絵に描いたような風景でした。そのソファーへ通されて、わたしは、すとんと腰を下ろしました。

 室内を見回すと、調度品とか飾りとか、そういったものが一切ないことに気がつきました。所狭しとデスクが四つほど並んではいましたが、置いてあるものといえば電話くらいで、だれかが使っている様子もなく、殺風景という言葉では足りないくらい、なにかが欠落しているように思えました。もし、デスクもなにもなかったのなら、もしかすると、この場所に引っ越してきたばかりなのかもしれない、などという想像もできたのですが、申し訳程度に並べられたデスクが逆になにかを隠そうとしているように思えて、なんだか妙な気持ちになりました。こんなところで、仕事ができるのだろうか? こんなところで、パソコンをマスターすることができるのだろうか? と。

 もしかすると、変なところに来てしまったのかもしれない。と思いました。

 なにも知らない素人が、仕事をしながら技術を身に付ける、なんて、そんなうまい話があるわけがないのだ、と。

 きっと、これから変なところに売り飛ばされてしまうのだ、どこか外国の工場、だとか、どこか地下壕のようなところで、延々とパソコンのデータ入力作業をしなくてはいけなくなったり……、なんて。

 あ、いま、笑いました、ね。

 妄想のしすぎでしょうか。でも、あのときは、本気でそう思ったのです。いまにして思えば、そんなばかなことがあるわけがない、と笑い飛ばせることですけれど。

 ともあれ、妙な想像に半ば冷や汗をかいて、ソファーの上で身を縮こまらせていると、事務員らしき女性となにやらこそこそ話をしていたパンチパーマのひとが、わたしのところにひらりとやって来ました。そのとき、ふわりと翻ったダブルのジャケットの裏地が見えたのですが、それは目の覚めるような、真っ赤なシルク風のものでした。きっと、その背中には、龍や獅子が刺繍してあるにちがいない、と思いました。のちにわかったことですが、事実、刺繍は、ありました。ただし、龍や獅子ではなく、牡丹の花でした、けれど。

 パンチパーマのひとは、わたしのところへ来るなり、

「パソコンさわったことないんだよね?」

 と、いきなり本題に触れました。

 わたしが、え、はい、とこたえると、困ったような顔をしました。だって、募集要項には「初心者歓迎」と書いてあったではないかと思っていると、

「でも、英検二級持ってんだよね?」

 と言うので、え、はい、とこたえると、

「それは、いいね」と言って、満足そうにうなづきました。

 いったい、なにがいいと言うのだろう? と、目のまえにいるこの謎の男性の、次の言動を待ちました。その人は、腕を組んでしばし考え込んでいましたが、突然、「よし、決めた」と言って、膝を打ちました。

「やっぱり、あすこだな」

 そう言って、事務員の女性に合図を送りました。

 わたしは、万事休す、と身を硬くしました。売り飛ばされる場所が決まったのだ、やはり、外国の工場なのだ、と思って。




 ところが、そんなわけはなく、わたしの事務職員としての勤務先が決まったのです。

 それは、いつかはと望んでいた、誰もが知っているような大企業といって差し支えないところでした。










:3.決心


 いまから六年ほど前、わたしは、短大を卒業したばかりでしたが、希望に満ちた新社会人生活に胸を躍らせていたわけではなく、これから先の人生に一抹の不安をいだきながらも、目先の生活で手一杯な、そんな日々を送っていました。

 仕事は、していました。

 就職活動というものを放棄していたため、学生時代の延長で、本屋さんでのアルバイトですけれど。あ、わたし、本がすきなんです。本に囲まれて過ごしていられたら、それだけでたのしいだろうと思って、なんとなくはじめたバイトでした。でも、本屋さんでの仕事は、想像以上に大変でした。売れた本の補充や書棚の整理というものをしなくてはいけませんでしたから。本って、意外と重いのですよね。室内での仕事でしたが、汗だくになることもありました。

 それでも、しばらく仕事をつづけられたのは、やはり、すきなものにふれていられるからだったと思います。いえ、そう思い込もうとしていたのかもしれません。

 すきだから、から、すきだけど、という気持ちが芽生えてしまうと、もう、どうにもなりませんでした。こんなに、汗にまみれて重い本を運び、指先をいため、腰を悪くし、安月給にかつかつしながら生活しなくてはいけないなんてと、すきなはずの本を見るのもいやな気持ちになることもありました。

 そのうち、いわゆるOLさん、というのでしょうか、オフィスビルで働く女性、というものに一種の憧れをいだくようになりました。

 いったん放棄したはずの、就職、という二文字が頭をかすめるようになったのは、ちょうど当時付き合っていた彼と別れ、三年後、五年後、十年後のじぶんがいったいどうなっているのか、想像もできなくなっていたせいもあります。

 彼とは、自然消滅、でした。そのときの彼は、三人目の彼でしたが、三ヶ月くらい、あっというまのことでした。ほかの彼ともそうでしたけれど。どうやらわたしには恋愛感情というものが希薄なようで、付き合っていて、おもしろみがなかったのかもしれません。じぶんでいうのもなんですけれど。

 やっぱり、だめだった、と、半ば予期していたできごとが現実となったときというのは不思議で、妙に空虚な気持ちになるものなのですね。いつ、そのときが来るかと怯えていたことがおとずれて、ほっとすると同時に、がっかりとするような。

 でも、ほんとうにおそろしい気がしたのは、失恋したという事実に、なんのいたみも感じなかったということでした。

 こんなわたしは、恋愛というものができるのだろうか。結婚ができるのだろうか。

 そして、このまま本屋さんでバイトをつづけて、いったい、どうするつもりなのか。いったいどうなるのか。どうなっていくのか。そう考えると、めまいがするような気持ちがしました。

 恋愛のこと。じぶんの職業。じぶんの将来。

 なにか、しなくては。どうにか、しなくては。なにを、どうすればいいのか、わからないけれど、動き出さなくては。そう思うのは、至極自然なことでした。

 その、ちょっとまえのことでした。彼とまだ付き合っていたころ、彼の家に遊びに行ったとき、真新しいパソコンがリビングルームに備え付けてあるのを目にしました。

 彼、いえ、もと彼は、「いや、いまはパソコンくらいできないと、仕事に不利だから」と言いました。

 パソコンの時代。

 じぶんには関係のない世界だと思い、そのときはあまり気にも留めなかったのですが、ふとした瞬間に、「パソコンくらいできないと」と言った、もと彼、の言葉がよみがえって、頭から離れなくなりました。

 ここ数年、安価なパソコンも出回っていますが、当時なにも知らなかったわたしは、パソコンといえば高価なものと思っていましたので、パソコンを入手するための手段すら分からずにいました。

 パソコンを扱えるようになりたい。でも、どうすれば?




 そんなとき、たまたまなんとはなしに購入したアルバイトの情報誌で、「事務アルバイト募集」という広告があるのを目にしました。


「パソコン初心者歓迎」
「経験者が懇切丁寧に教えます」
「Word, Excelスキルを身につけるチャンス!」
「マクロを使いこなして、表計算のプロに」
MOUS取得支援あり」
「大企業への出向あり」
「英語力ある方歓迎!」


 そんな文句がずらずらと並んでいましたが、半分くらいは意味がわかりませんでした。そのくせ、これはなにかの啓示かもしれない、なんて思いはじめると、もうほかの広告は目に入らなくなってしまい、ずらずら並んだ文句を、何度も何度も、読み返しました。どうやら初心者でもチャンスがあり、なにかのスキルを身につけられる、そして、英語力があれば有利なのだ。そう解釈し、さまざまな空想をふくらませました。

 仕事をしながらパソコンを覚えられる、そして、ゆくゆくは正社員として雇ってもらえるかもしれない、スキルを身につけたら、誰しもが知っているような大企業で働くこともできるのかも。とか、そんなことです。

 物覚えがいいことや、割と機械にも強いということ、それから、英語も得意――、わたし、英検二級を持っているのです――、ということもあって、それまでパソコンを触ったことなど一度もなかったのですが、なぜか、きっとやっていける、という自信が湧いてきました。

 そこでわたしは一念発起し、その会社のアルバイト募集の面接を受けに行くことにしたのです。

 面接は、すぐでした。履歴書を送った翌々日応募受領の電話があり、その翌日にという。あまりにもあっけない展開だと、逆に拍子抜けしてしまったくらいです。

 面接のため、はじめて、千葉県の柏市というところに行きました。上野駅から長距離電車に乗って。都会から郊外へ、だんだんとものさびしくなっていく窓の外の景色をぼんやりと眺めていると、まるで、夢やぶれてどこか知らない土地に流されていくみたいな、そんな気持ちになりました。

 アルバイト情報誌の地図を頼りに辿り着いた面接会場、というか、その会社、は、汚い雑居ビルのなかにありました。重々しい鉄の扉を開けると、室内では、事務員らしき女性と、パンチパーマにダブルのスーツを着た、まるでヤクザ映画の端役みたいな風貌の男のひとがひとり、待ち構えていました。












:2.淡々とした決意


「わかりました」と、婦人がしっかりと、言った。

「お話します。どうか、こんなわたしの話を、聞いてください」

 わたしは、婦人の顔を見た。そこには、自棄になったような勢いや捨て鉢さなどはなく、ただ、淡々とした決意が、あるように思えた。

 はい、と、わたしは応えた。「お伺いします」

 婦人がこっくりとうなづいたのを受けて、わたしは言った。

「あなたがお話になりたいことを、ありのままに、お話ください。

「すべてを語る必要はありません。隠したいことは隠したっていい。

「ただし、うそだけは語らないでください。偽りのお話をしていただいても、できることは、なにもありません。

「あなたの、忘れたい過去、というものを、できるだけ、ありのままに、うそ偽りなく、お話ください。

「そこからです。そこから探るしかないのです。わたしが、あなたに助言してあげられることを――」






 婦人は、わかっています、とでも言いたいかのように、軽く唇をかんで、うなづいた。

 そして、なんの合図もなく、婦人の話が、音楽のように、しずかにはじまったのだった。








:1.はじまり


 わたしには、ずっと、わすれられないひとが、いるんです。  何年も、何年もずっと。  たぶん、これから先もずっと。  ええ。そう、ですね。いままでのわたしは、あえて、わすれずにいることを選択してきたのかもしれません。ほんとうのところ、まるで呪縛のようなこの思いから解放されたい、と、これまでに、何度も、何度も思ってきました。けれど、わすれてしまうくらいならば、まるで十字架を背負うように、両手を縛られながら生きていきたい、そんなふうに考えてきました。  あ、いえ、わたしは、キリスト教徒ではありません。  そうですね。  矢が、刺さって、それ以上刺すことも、抜くこともできなくなっている、というようなことです。前に進むことも、後ろに下がることもできず、身動きがとれなくなっている、という。  むしろ、そうなるように、じぶん自身に仕向けてきたような気がします。あ、いま、話しながらそう思ったのですけれど。  わすれちゃいけない。わすれたらいけない。わすれたら、おわりだ。そう思ってきました。  それが、なぜ、ここにいるのでしょうね。  それは、じぶんでもよくわからないのですけれど。  そうですね、ただ、はっきりしているのは、あのひとにとって、わたしが、――







「――すみません」

 わたしは恐縮しながらも、あわてて言葉を発した。

「え」

 目の前の、半ば夢見ごこちに目を曇らせた婦人。が、ふっと顔を上げて、話すのをやめた。声がやんだだけで、口元にはまだ、これから話そうとしていたことばの余韻が残り、唇が“O”のかたちに留まっていた。そのかたちから、上方へ目線をずらし、婦人と目が合った瞬間、曇っているのは涙のせいだと分かったが、どうやら泣いているというわけではなく、いつも潤んだ瞳をしている類の人なのだと気がついた。

「ええと、ごめんなさい」

 まるで、その潤みがねっとりと身体にまとわりつくような気がして、わたしは、ゆっくりと、さりげなく、書類に目をやるふりをして、視線を振りほどいた。

 三隅真希。ミスミマキ。二十六歳。女性。――すでに目を通して知っている依頼者の情報を頭のなかでめぐらせた。とても二十六には見えない。いや、老けている、というわけではないが。どこか、もっと年齢と経験を経た女性の厳しさと諦めとがない交ぜになったやる瀬なさが、あるように思えた。

 かなしい女性。ここに、よく来る人たち。いや、かなしいから、ここに来るのだろう。かなしい女性をあまりにも知りすぎたため、わたしは、感覚が麻痺しているのかもしれない。

 わたしは、眼鏡越しにちらりと婦人に目を走らせた。地味なスーツ風の衣服からすらりと伸びた脚は、やや細すぎる気もするが、なかなか魅力的ではあった。黒く長い髪に重々しく縁どられた小さな顔。おそらく美人であるはずなのに、どうしてか、美しい人、だとは言い切りがたい、なにかがあった。

 二十六歳。女性。OL。未婚。ひとり暮らし。猫がすき。花がすき。これまでにつき合った彼氏は二人ないし三人。いずれも短い期間。最後に付き合ったのは三年前。――といったところか。

 わたしの悪い癖で、依頼者についての勝手な想像を頭のなかで素早くめぐらせていると、刺すような視線が注がれていることに気がついた。依頼者のものではなく、部屋の隅に立ちんぼになっている、今日からアルバイトで入ってもらったアシスタントの女子大生からのものだった。

 わたしは、咳払いのようなものをひとつして、アオキくん、と、女子大生に呼びかけた。女子大生は、じぶんが呼びかけられると思っていなかったのか、一瞬の間ののち、あわてて、はい、と応えた。

「お飲み物を、出してくれないかな」

 依頼者がはっとわたしの顔を見たような気がした。わたしは、婦人のほうへ向き直り、「いや、お話に入っていただくまえに、お茶でも、と思いまして」

 婦人は、よくわからない、というふうに首を少し傾けた。

「いや、みなさん、よく、お話に夢中になられるんですよ。話をしつづけるのって、けっこう、のどが渇くんですよ」

 ――そして、話を聞きつづけるほうも、ね。こころのなかでぺろりと舌を出すわたし。に、婦人が気がついているか、顔をのぞき込んでみた。

 相手は相変わらず、呆けたような、夢見ごこちのかおで、なにもしゃべらず、首をかしげた。こういった、一見無口そうな依頼者のほうが、話し出すと止まらなくなることを、わたしはよく知っているのである。

 つらい恋を忘れたい。よくある話だ。振り向いてくれない男を断ち切りたい。よくある依頼だ。よくある話、よくある依頼に、わたしがよく対処する方法は、じっくりと話をきいてあげること。依頼者が納得するまで話をさせてあげること。

 それで、彼女たち、は、満足するはず――

「ほんとうに、わすれられない過去を、わすれることができるんですか?」

 女子大生がお茶を汲んでくれているあいだ、手持ち無沙汰にわたしが世間話でもしようかと思っていると、突然婦人が、ゆっくりと、けれど、なにかをさぐるような確かさで言うので、わたしはふたたび婦人の顔をのぞき込んだ。まだ、先ほどまでの呆けたような表情だったが、その奥にじっとりとしたゆるぎなさが、あった。

 わたしは、「それは、わかりません」と言った。きっぱりと言い切った、といったほうが良いか。

 婦人は、別段驚きも悲嘆もせず、そうですか、と言った。

 なんとなく、この女性らしい反応のような気がした。すぐそばでお茶を淹れている女子大生のほうが、なにか言いたげに、じっとわたしを見ているくらいだ。

 わたしは、こころのなかで、ひとつ、大きな息をゆっくりと吐いた。これまでに、あまりにも聞かれすぎた質問だったせいではなく、女子大生の手前だったからだ。きっと、女子大生は、わたしがなんと答えるのか、息を凝らして見守っているだろう。

 わたしは、ゆっくりと言った。

「わたしは、医者ではありません。学者でもありません。ましてやマジシャンでもありません」

 婦人の表情は、変わらなかった。わたしは、つづけた。

「過去をなかったことにすることは、わたしにはできません。いや、だれにもできないのかもしれません。過去を忘れる、忘れさせるのでなく、忘れる、というのは、本人にしかできないことかもしれません。

「わたしは、ただの研究者です。ヒトの、記憶機能についての。記憶について、いろいろなかたの話を伺っているうち、いつのまにか、過去についての相談を受けるようになってしまいました。

「わたしにできるのは、お話を伺って、過去を『忘れる』ためのヒントを与えるくらいなのです」

 ――ゆっくりと、沈黙が流れた。

 こういった場面であらわれる依頼者の反応のほとんどは、絶望して泣き出すか、怒って帰ってしまうか。あるいは、もう、引き返せなくて、とにかくなんでもいいから話をしはじめるか。いずれかである。

 婦人は、いずれの反応も示さず、なにか言おうとしているのだけれども、なにをどういえばいいか分からない、という表情でしばらく押し黙っていた。じぶんのこころのなかで、なにか、決意を固めるための理由を作り上げているようにも見えた。それから、ゆっくりと顔を上げて、わたしの目をのぞき込んだ。その目のなかには、相変わらず薄い涙の膜がうずを巻いていた。そのうずが、わたしを飲み込もうとした瞬間、

「わかりました」と、婦人がしっかりと、言った。

「お話します。どうか、こんなわたしの話を、聞いてください」